ど枝道が現われようと、彼は驚きはしなかった。奇数、偶数と行きさえすれば迷う心配がないからである。
 今の時間にして十時間余り、道程《みちのり》にして十二、三里、紋太夫は歩いたものである。その時|洞然《どうぜん》と打ち開けた広い空地が現われた。それは空地と云うよりもむしろ一個の別天地であった。丘もあれば林もあり人家もあれば小川もある。蛍の光か月光か、蒼澄んだ仄《ほの》かな微光《うすびかり》が、茫然と別天地を照らしているが何んの光だか解らない。
 どこからともなく人声がする。と歌声が聞こえて来た。その歌声を耳にすると紋太夫はアッと仰天した。日本の言葉で日本の歌を鮮かに歌っているからであった。
「おおここには日本人がいる! ここはいったいどこだろう?」
 夢に夢見る心地と云うのはこの時の紋太夫の心持ちであろう。歌声は益※[#二の字点、1−2−22]はっきりと、益※[#二の字点、1−2−22]美しく聞こえて来る。紛れもない日本の歌だ。
「ここはいったいどこだろう」
 紋太夫は感にたえ思わず繰り返して呟いた。しかり! ここはどこだろう?
 壺神様を奉安した神秘崇厳の神境なのである!
 壺神様とは何物ぞ? それには一場の物語がある。

        十五

 昔々遙かの昔に、墨西哥《メキシコ》の国ガイマスの地にガイマス王という国王があった。その王子を壺皇子《つぼみこ》と云ったが、早く母上と死に別れ、継母《ままはは》の手で育てられた。多くの継母がそうであるようにこの継母も継子を憎みどうぞして壺皇子を殺そうとした。
 壺皇子八歳の時であったが、天変地妖相継いで国内飢餓に襲われた。その時継母は国王に云った。
「神のお怒りでござります。神様が何かを怒らせられ飢餓を下されたのでござります。大事な宝を犠牲《にえ》として、お怒りを和《なだ》めずばなりますまい」
「犠牲《にえ》には何を捧げような?」
「一番大切な宝物を」「一番大切な宝物とは?」「壺皇子をお捧げなさりませ」
「なるほど俺《わし》の身にとって皇子より大事なものはない。皇子を捧げずばなるまいかな」
「皇子を犠牲となされずば神の怒りは解けますまい」
「人民のため国家のため、それでは壺皇子を捧げる事にしよう」
 王は悲しくは思いながらも継母の甘言に心迷い壺皇子を犠牲にすることにした。
 祭壇が築かれ薪木《たきぎ》が積まれ犠牲を焚く日が
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