である。
「実は俺にも解らねえのさ! そんな物は世にあるまい。アッハハハ」と駈け過ぎる。
「いやはや馬鹿な奴ではある。うまく一杯食いおったわい」
こう心地よげに呟きながら、松火《たいまつ》の光で道を照らし先へ先へと進んで行った。
とまた遙か行く手に当って蒼白い光が見えて来た。近付くままによく見れば、肥えた傴僂《せむし》の老人《としより》が岩に一人腰掛けている。背後《うしろ》の岩壁を刳《く》り抜いてそこに灯皿《ほざら》が置いてあったが、そこで灯っている獣油の火が蒼然と四辺《あたり》を照らしている態《さま》は、鬼々陰々たるものである。
と見ると老人《としより》の足もとに深い穴が掘ってある。
消え入るような悲しそうな声で何やら老人は話しかけた。しかし紋太夫には解らない。彼は手真似で訊き返した。
「足を洗わせてくださいませ」こう老人は云っているのであった。「諸人の足を洗うのが私の役目でござります。罪障消滅のそのために足を洗わせてくださりませ」繰り返し老人は云うのであった。
「変わった事を云う奴だな。これは迂濶《うかつ》には信じられぬ」心中怪しく思いながら、紋太夫は思案した。「岩から泉水《いずみ》が流れている。ははあこの水で洗うのだな。……ここに深い穴がある。穴! 穴! これが怪しい」
この時忽然彼の心へ、老人の姦計が映って見えた。「ううむそうか。よく解った。そっちがそういう心なら、こっちはその裏を掻いてやろう」
つと紋太夫は片足を老人《としより》の前へ突き出した。とたんに老人は膝を突き、その足首を掴んだが、真っ逆さまに紋太夫を穴の中へ投げ込もうとした。
「えい!」と云う裂帛《れっぱく》の声、紋太夫の口から※[#「しんにゅう+奔」、189−5]《ほとば》しると見るや、傴僂《せむし》の老人の小さい体は、幾十丈幾百丈、底の知れない穴の中へもんどり打って蹴落とされた。
「人を咒《のろ》わば穴二つ、いい気味だ、態《ざま》ア見ろ」
じっと穴の中を見込んだが、文目《あやめ》も知れぬ闇の底から冷たい風が吹いて来るばかり、老人の姿は見えなかった。
「なるほど巫女の云った通り、小気味の悪い悪人どもが到る所に蔓延《はびこ》っているわい」――油断は出来ぬと心を引き締め、松火《たいまつ》の火を打ち振り打ち振り紋太夫は進んで行く。
奇数、偶数、奇数、偶数! ――幾百ないし幾千本、どれほ
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