やって来た。八歳の壺皇子がそれとは知らず嬉々として祭壇へ上った時火が薪木へ掛けられた。しかし神は非礼を受けず忽ち奇蹟を現わされた。忽然巨大な一振りの剣《つるぎ》が雲の中から現われ出たが、まず継母の首を斬り、次いで壺皇子を束《つか》へ乗せ、どことも知れず翔《か》け去ったのである。
 剣は皇子を乗せたままチブロン島まで翔けて来たが、そこで一旦地上へ下り、さらに虚空を斜めに飛び窟《いわや》の中へ飛び込んだ。
 この神秘境へ来たのである。
 活ける剣は窟の中で壺皇子を人知れず養育した。皇子の寂寥を慰めるために人界から人間を連れて来た。その人間は次第に殖え、ここに部落を形成《かたちづく》った。
 そこで壺皇子はその部落の帝王として君臨した。
 部落は平和に富み栄え、壺皇子は数百年活き延びたが、天寿終って崩御《ほうぎょ》するや、人民達はその死骸《なきがら》を林の中へ埋葬し神に祀って壺神様と云った。御神体は活ける剣である。
 その後部落は一盛一衰、幾多変遷はあったものの、今に及んで絶えることなく、不思議な国家として存在した。――以上は島の土人によって、今も語られる伝説なのである。
 それはそれとして、部落の中から、日本の歌の聞こえるのは何んと解釈したものであろう?
「何んという不思議なことだろう?」
 小豆島紋太夫は佇《たたず》んでしばらく歌声に耳を澄ました。
「歌の主を探し当てよう。それが何よりの急務である」
 ――で、紋太夫は足を早め、声のする方へ辿《たど》って行った。
 行くに従って歌声は次第にハッキリ聞こえて来た。歌の文句も聞き取れた。
「あれは万葉の古歌ではないか。これはどうでも歌の主は日本の人間に相違ない」
 こう考えて来て紋太夫は怪しく心の躍るを覚えた。彼はとうとう駈け出した。
 林の中へはいった時、石に腰かけた土人老婆が、無心に歌をうたっているのを、微光《うすびかり》の中に見て取った。
「や、日本の人間ではない!」
 紋太夫は叫んだものである。と、老婆は歌を止め、紋太夫をつくづく眺めたが、流暢《りゅうちょう》な日本語で話しかけた。
「おおあなたは日本人ですね」
「さよう、私は日本人」
「助けてください助けてください!」
 老婆は大地にひざまずき、日本流に合掌した。
「助けてやろうとも助けてやろうとも、しかし何を助けるのです」
「妾は聖典を盗まれました」
「何、聖典
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