《ばく》された私、矢来をお取り払いくだされたとてとうてい逃げることは出来ませぬ」
「警護の者も沢山いる。逃げようとて逃がしはせぬ。……最後の願いじゃ聞き届けて進ぜる」
「有難い仕合せに存じます」
 そこで矢来は取り払われ波|平《たいら》かの浪華《なにわ》の海、住吉の入江が見渡された。頃は極月二十日の午後、暖国のこととて日射し暖かに、白砂青松相映じ、心ゆくばかりの景色である。
 太刀取りの武士が白刃《しらは》を提げ、静かに背後《うしろ》へ寄り添った。
「行くぞ」
 と一声掛けて置いて紋太夫の様子を窺《うかが》った。
 紋太夫は屹《きっ》と眼を据えて、水天髣髴《すいてんほうふつ》の遠方《おちかた》を喰い入るばかりに睨んでいたが、
「いざ、スッパリおやりくだされい」
 とたんに、太刀影《たちかげ》陽《ひ》に閃めいたがドンと鈍い音がして、紋太夫の首は地に落ちた。颯《さっ》と切り口から迸《ほとば》しる血! と見る間にコロコロコロコロと地上の生首渦を巻いたが、ピョンと空中へ飛び上がった。同時に俯向《うつむ》きに仆れていた紋太夫の体が起き上がる。
 首は体へ繋がったのである。
「ハッハッハッハッ」
 と紋太夫は大眼カッと見開いて役人どもを見廻したが、
「ご免|蒙《こうむ》る」
 と一声叫ぶと、海へ向かって走り出し、身を躍らせて飛び込んだ。パッと立つ水煙り。そのまま姿は見えなくなった。

 小豆島紋太夫の持ち船が、瀬戸内海風ノ子島の、深い入江にはいって来たのは、同じその日の宵のことであった。
 船中|寂《せき》として声もない。
 二本|帆柱《ばしら》の大船で、南洋船と和船とを折衷したような型である。
 鋭い弦月が現われて、一本の帆柱へ懸かった頃、すなわち夜も明方の事、副将|来島《くるしま》十平太は、二、三の部下を従えて胴の間から甲板《かんぱん》へ出た。
「ああ今夜は厭な気持ちだ。月までが蒼褪《あおざ》めて幽霊のように見える」
 呟きながら十平太は東の空を振り仰いだが、「今頃|骸《むくろ》は晒されていようぞ。ああもう頭領とも逢うことが出来ぬ」
「とんだことになりましたな」一人の部下が合槌を打つ。「あの偉かった頭領がこうはかなく殺されようとは、ほんとに、夢のようでございますなあ」
「俺はあの時お止めしたものだ。……大坂城代も町奉行も我ら眷族の者どもを一網打尽に捕らえようとてぐすね引いて
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