屋のうえに金持ちなので歯が立たず、店子《たなこ》たちは歯ぎしりしながらも追従《ついしょう》していたそうです。ところがある晩、祝い事があるというので、この大屋さん、店子一同を自宅《うち》へ招待《よ》んでご馳走したそうで。とそこへ新鋳《しんぶき》の小判十枚が届けられて来たそうです。ナーニ、その小判の自慢をしたかったので大屋の禿頭《はげあたま》、店子たちを招待《よ》んだんで。さて自慢をしたはいいが、ご馳走が終ってみんな帰った後で、小判を調べてみると、一枚不足しているんで。盗られた! と思ったとたんに自分と一番近く並んでいた貧乏なお侍さんの、物欲しそうだった顔が眼に浮かんで来たそうで。そこで『盗んだなアあいつだ』と云いふらしたそうで。これが長屋中の評判になったんですねえ。お侍さんはとうとう居たたまらずに長屋を出たそうですが、出る際黙って小判一枚を大屋さんの門口から抛りこんだそうで。『やっぱりあいつがやったんだわい』と大屋さんはまたこのことを云いふらしたそうですが、その実お侍さんは、大事な刀を売りはらって、その金で償《つぐな》ったのだそうです。ところがどうでしょうその年の大晦日《おおみそか》になって、煤払いをしたところ、なくなったと思った新鋳《しんぶき》の小判が畳の下から出て来たそうで。さあさすがの大屋さんも参りましたねえ。『あのお侍さんにあやまらなければならねえ』とその行方《ゆくえ》をさがしましたが、行方がわからない。当惑しながら日を送り、三月になるとお花見、向島《むこうじま》へお花見に行ったところ、そのお侍さんが花の下で、謡《うたい》をうたって合力を乞うていたそうで。そこで大屋の禿頭、オズオズ寄って行って、事情を話して小判を返そうとすると『エイ!』という鋭い声で。見れば大屋の首が堤の上に、ころがっていたそうで。というところへ行きたいんですが、やはり峰打ちで叩き倒したんだそうで。……しかし、それからが大変で『金がなければこそこの恥辱を受ける』とそのお侍さん、その晩大屋さんの家へ強盗《おしこみ》にはいって、大金を奪いとったのを手始めに、大泥棒になったそうです」
風呂の中の人形
「泥棒に!」
と、脅《おび》えたような声で云ったのは佐五衛門であった。でも、すぐに幾度も頷き、
「無理はない。次から次と、ひどい目にあわされれば、どんな人間だろうと……」
「おおご主人もそうお思いか」
と、云ったは、易者《うらない》という触れ込みの男であったが、
「それで安心」
と口を辷らせたように云い継ぎ、ハッとしたように、急に黙ってしまった。この時深い谷の方から鋭い笛の音が一声聞こえて来た。
「何んだろう」
と云ったのは、佐五衛門であった。
「季節《しゅん》違いだから鹿笛じゃアなし。……呼笛《よびこ》かな」
首をかしげ、眉と眉との間へ皺をたたんだ。
お蘭は立ち上がった。
「どこへ行くんだえ」
「お湯へはいって、それから寝るの」
「こんな晩は早く寝た方がいいなア」
五人の湯治客も、今の笛の音に不審を起こしたらしく、黙って顔を見合わせ、耳を澄ました。
お蘭は湯に浸《つ》かりながら空想にふけっていた。
(あたしは男に憎まれたり、大事な男の心を、女を憎むようなひねくれた心になんかしやしない)
そんなことを空想していた。大事な男というのは、一ヵ月先になると自分の良人《おっと》となるべき、布施屋《ふせや》の息子のことであった。
(進一さんだって、わずかな金――小判一枚のゆきちがい[#「ゆきちがい」に傍点]ぐらいで、人を叩き倒すような兇暴《あら》い性質《たち》の人じゃアないから安心だわ)
彼女にはさっきの湯治客の話が、やはり心にかかっているのであった。
この湯殿は主屋《おもや》と離れてたててあり、そうして主屋よりひくくたててあった。それで二十段もある階段が斜《はす》に上にかかって、その行き詰まりの所に出入り口があり、そこに古びた長方形の行燈がかけてあった。それでこの十坪ぐらいしかない湯殿は、ほんのぼんやりとしか明るくなかった。湯槽《ゆぶね》の広さは三坪ぐらいでもあろうか、だから高い階段の一番上に立って、湯に浸かっているお蘭を見下ろしたなら、薄黄色い行燈の光と、灰色の湯気とに包まれた、可愛らしい小さい裸体《はだか》の人形が、行水でも使っているように見えたことだろう。明礬質《みょうばんしつ》のこの温泉《いでゆ》は、清水以上に玲瓏としていて、入浴《はい》っている人の体を美しく見せた。胸が豊かで、膝から下の足が素直に延びているお蘭の体は、湯から出ている胸から上は瑪瑙色《めのういろ》に映《は》えていたが、胸から下は、白蝋《はくろう》のように蒼いまでに白く見えていた。お蘭は時々唇をとんがらせ、顔を上向け、眼の辺へかかって来る、絹糸のような湯気を吹き散らした。フーッと音を立てて吹くのであった。その動作は、罪のない子供の、屈托のない動作そのものであった。
フーッとまた吹いた。そうして笑った。
と、その時|背後《うしろ》の方で物音がした。お蘭は振り返って見た。頬冠りをした一人の男が、階段の下に、行燈の光を背にして立っていた。
「まあ」
とお蘭は云った。
「それ妾の着物よ。どうするのさ」
男女混浴の湯殿へ、男がはいって来るに不思議はなかったが、その男が、衣裳棚の中へ脱ぎ入れてあったお蘭の着物を抱えていたので、そう云ったのであった。男は着物を棚の中へ返した。
「お湯へはいったらどう」
とお蘭は云った。
「お客様ね、何番さん?」
しかし男は返辞をしないで、暗い頬冠りの中から刺すような眼でお蘭を見詰めた。
「おかしな人ね。……何番さんだったかしら? ……お湯へおはいりなさいよ」
そういうとお蘭は、背中を湯面《ゆおもて》へ浮かせ、蛙泳《かわずおよ》ぎをして湯槽《ゆぶね》の向こう側へ泳いで行き、振り返るとぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を湯槽の縁へかけ、フーッと、唇をとんがらかして湯気を吹き、男と向かい合った。
「おかしな人ね、棒ッ杭のように突っ立ってるってことないわ。……わかった、あんた恥ずかしがり屋さんね、女の子と一緒にお湯へはいるの恥ずかしいのね。……大丈夫、あたしかまやア[#「かまやア」に傍点]しないことよ。……おはいりなさいよ。フーッ」
「はいってもいいかい」
と男ははじめて云った。その声は深みのある、また濁りのある、聞く人の心をゾッとさせるようなところのある声であった。しかも四辺《あたり》を憚るように、押し殺した声であった。
怪しの男
でもお蘭にはそんなことは気が付かないらしく、
「どうしたって変な人ね、湯治に来たくせに、湯へはいっていいかいなんて。……おはいりなさいよ」
「じゃアはいろう」
男は湯槽《ゆぶね》の中へ下りて来た。すぐ沈んだ。
「湯の中へ頬冠りしたままではいるなんてことないわ。おとりなさいよ」
「取らねえ方がいいようだ」
「何故よ」
「恐がるといけねえ」
「誰がよ」
「娘っ子が」
「あたし? フーッ。……湯屋の娘が男の顔見て恐がっていたのでは商売にならないわ。フーッ。明日は雨よ、今夜のお湯とても湯気が濃いんだもの。匂いだって強いし。……こうと、あんたきっと猟師《かりゅうど》さんね」
「猟師?」
と男は吃驚《びっく》りし、
「何故だい?」
「いい体しているもの。……骨太で、肉附きがよくて、肩幅が広くて……」
「猟師じゃアねえ」
「じゃア樵夫《きこり》さんね」
「樵夫だって」
吃驚りして、
「違う」
「そう」
「お前さん何んていう名だい?」
と今度は男が訊いた。
「お蘭ちゃん」
「ふうん。そのお蘭ちゃん幾歳《いくつ》だい?」
「十七」
「年頃だ」
「そうよ。だから妾《わたし》来月お嫁に行くんだわ」
「どこへ?」
「進一さんの所へ」
「親しそうに云うなア。以前《まえ》から知ってる男かい?」
「幼な馴染なの」
「お前さんを可愛がっているかい?」
「雪弾丸《ゆきだま》投げつけてよく泣かせたわ」
「ひどい野郎だな」
「あたしの泣き顔が可愛いのでそれが見たかったんだって」
「負けた」
と男ははじめて笑った。好意ある笑い方だった。
この時、また鋭い笛の音が谷の方から聞こえて来た。と、それに答えて、山の方からも同じような笛の音が聞こえて来た。
「チェ」
と男は舌打ちをした。
「取巻きゃアがったな」
「何よ?」
とお蘭は聞き咎めた。
「取巻いたって?」
「猛々《たけだけ》しいケダモノを取巻いたというのさ」
「猪? ……だって、季節《しゅん》じゃアないわ」
「猪よりもっと恐ろしいケダモノだ」
「何んだろう?」
「邪悪――そうだ、女をとりわけ憎んだっけ。……強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》、ありとあらゆる悪業を働いた野郎だ」
「じゃア『三国峠の権《ごん》』のような奴ね」
「知ってるのか?」
「三国峠の権の悪漢《わるもの》だってこと、誰だって知ってるわ。でも、その権、ご領主様に捕えられたじゃアないの」
「うん、沼田のお城下で、土岐様の手に捕えられたよ」
「お牢屋へ入れられたっていうじゃないの」
「その牢を破ったんだ」
「まア。いつ?」
「昨夜《ゆうべ》」
「まア」
「そいつがこの土地へ逃げ込んだらしい」
「どうして解るの?」
「捕り手がこの家《うち》を取巻いたからさ」
「じゃアこの家の中に?」
「うん。……恐いか!」
「恐いわ」
「だから俺はさっき恐かアないかと云ったんだ! 俺が権だ!」
ヌーッと男は、湯から、巨大《おおき》な柱でも抜き上げたように立ち上がった。
「フーッ」
とお蘭は湯気を吹いた。
「あたし思いあたったわ、あんたきっと役者ね」
「何んだって?」
「あんたきっと旅役者だわ」
「…………」
「とても芝居うまいものね」
男は湯の中へ沈んでしまった。
三国峠の権
「そうかい、俺を役者だというのかい」
と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の面《おもて》に見入っていた。
「三国峠の権の真似《まね》上手だものね。お役者さんよ」
「どうして物真似だってこと解るんだい?」
「そりゃア眼力《め》だわ。……あたし客商売の温泉宿《ゆやど》の娘でしょう。ですから、悪い人かいい人か、贋物か本物かってこと一眼見ればわかるわ」
「なるほどなア、それで俺《おい》らを……」
「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」
「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが俺《おい》ら恥ずかしがり屋かなア」
「あたしの眼に狂いないわ」
「それならいいが」
「フーッ。狂いないわ」
「俺《おい》らア初めてだ」
と男はしみじみとした声で云った。
「冒頭《のっけ》から善人だと女に云われ、何んの疑がいもなくぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来られたなア、今夜のお蘭ちゃんが初めてだ。……礼云うぜ」
烈しい呼笛《よびこ》の音がこの温泉宿《ゆやど》の表と裏とから聞こえ、遙かに離れている主屋の方から、大勢の者の詈しり声や悲鳴や、雨戸や障子の仆れる音が聞こえて来た。
「捕手《いぬ》どもとうとう猟立《かりた》てに来やがったな! ようし!」
こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。
「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、裸身《はだか》で――そうよ、心も体も綺麗な裸身でぶつかって来られたので、俺らにゃア手が出せなかった。……お前のためにも幸福《しあわせ》だったろうが、俺らにも幸福だった。将来《これから》は俺らは女だけは。……それもお前のおかげで女の観方《みかた》変わったからよ。世間にゃお蘭ちゃんのような女もあると思やアなア。……それにしても、俺らに最初《はな》にぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た女が、お前のような女だったら、俺らこんな身の上にゃアならなかったんだが……」
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