をへだてた表戸はもう下ろされていたが、昼の間に吹き込んで来た桜の花が、敷居の下に残っていて、長い薄白い雪の筋かのように見えていた。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
という声が聞こえた時、両耳の辺ばかりにわずかの髪をのこしている、お父親《とう》さんの禿《はげ》た頭が上がり、声の来た方へ向いたので、お蘭もそっちへ顔を向けた。
猿ヶ京にたった一軒だけ立っている湯宿、この桔梗屋は、百年以上を経た旧家だといわれていたが、それはこの店の間の板敷が、黒檀のように黒く艶を出しているのでも頷《うなず》かれた。
板敷には囲炉裡が切ってあり、自在鉤にかけられてある薬罐《やかん》からは、湯気が立っていた。炉を囲んでいるのは五人の湯治客で、茶を飲み飲みさっきから話しているのであった。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
と云ったのは、その中の、絹商人だという三十八、九の、顔に薄菊石《うすあばた》のある男であった。
「お侍さんですがね、若い頃に、あるお屋敷へ、若党として住み込んだそうで。ところがそこに、若い綺麗なお嬢様がおありなされたが、同藩のお奉行様のご子息と婚約が出来、いよいよ行かれることになった
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