、第4水準2−13−28]み箱を膝の上へのせている、忠実らしい老僕へ云った。
「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」
「有難いことで」
 と僕《しもべ》は云った。
「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」
 猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた竹叢《たけむら》のほとりから、老鶯《ろうおう》の啼《な》き音《ね》が聞こえて来た。
「痛い! ま、どうしてこう痛むのだろう!」
 女は駕籠の中で突っ伏した。
「駕籠屋、桔梗屋へやれ」
 と武士は、あわてたように云った。

 お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の旅舎《はたごや》、布施屋の長男、進一のもとへ輿入ることになっていた。今夜も彼女は新婚の日の楽しさを胸に描きながら、帳場格子の中で帳面を調べている父親の横へ坐り、縫い物の針を動かしていた。結《ゆ》い立ての島田が、行燈の灯に艶々しく光り、くくり頤の愛くるしい顔には、幸福そうな微笑さえ浮かんでいた。
 土間
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