莫迦《ばか》な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」
と武士は、当惑したように云った。
ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。
三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と赤谷《あかや》川との合流が眼の下を流れている盆地であった。
文政二年三月下旬の、午後の陽《ひ》が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって飛沫《しぶき》をあげている谿水《たにみず》を、幽《かす》かな虹で飾っていた。散り初めた山桜が、時々渡る微風に連れて、駕籠の上へも人の肩へも降って来た。
「やむを得ない」
と武士は云った。
「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の温泉宿《ゆやど》で泊まることにしよう」
「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」
と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある温泉宿《ゆやど》、桔梗屋の方を見た。
「聞いたか」
と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている
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