塚三十郎はそう云った。おきたの心を喜ばせるため、幾度となく辻斬りをし、金を取ったことを感付かれ、手が廻ったということを、云いにくそうに三十郎は云った。
おきたは黙って聞いていたが、
「妾も江戸を売りまする。ご一緒に連れて行ってくださりませ」
と云った。
その後も例の新発意が、絶えず店の前を通ることや、絵双紙屋で自分の一枚絵を買っていた姿を見かけたことなどを、心のうちで思いながら、そうおきたは云ったのであった。
奥州方面へ落ちようとして、三十郎とおきたとは夏の夜の、家の軒へ蚊柱の立つ時刻に、千住の宿を出外れた。
三十郎は満足であった。明和年間の代表的美人、春信によって一枚絵に描かれ、江戸市民讃仰のまとになったところの、笠森お仙や公孫樹《いちょうのき》のお藤、それにも負けない美人として、現代一流の浮世絵師によって、四季さまざまに描かれて、やはり一枚絵として売り出され、諸人讃美のまとになっている、難波屋おきたと駈け落ちをする。
もうすっかり満足していた。
おきたも満足しているのであった。
尋常の人とは夫婦になれない、そういう身分の自分であった。それが微禄とはいいながら、徳川直参の若い武士と、夫婦になることが出来るのである。
(茶汲み女として囃《はや》されても、そんな人気はひとしきり、妾の素性が知れようものなら、あべこべに爪はじきされるだろう。それより好きな人と他国へ落ちて、安穏に一緒にくらした方が……)
どんなによいかと思われるのであった。
宿を出外れると松並木で、人通りなどはほとんどなく、夜啼き蝉の滲み入るような声が、半かけの月の光の中で、短い命を啼いていた。
その時|背後《うしろ》から足音がした。
あたりに気を置く落人《おちゅうど》であった。そっとおきたは振り返って見た。
網代の笠を傾けて、おきたを見つめながら例の新発意がすぐの背後《うしろ》を歩いて来ていた。
「あ」
おきたは三十郎へ縋った。
「あの坊主を殺して……そうでなければ……妾は……お前とは……添われぬ! ……添われぬ! ……」
抜き打ちにしようと三十郎は、刀の柄へ手をかけた。
(わしは殺される、わしは殺される!)
と、そのとたんに源空は観念した。
するとその瞬間に過去のことが、一時に彼の脳裡に浮かんだ。
三
二十五の時の弥兵衛であった。お伊勢様へ抜け
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