かと思われてなりませぬ。(公子忙しく入口に行き扉を開く、廊下より薔薇色の光線さし入る)
公子 紅い光ばかりが彳んでおりました。(と女子の傍へ来る)
女子 (室中を見廻し)、何故今夜に限ってこの室には一つの燈火も無いのでござりましょう、罪を犯す人は光を恐れると申しますが、私共二人は罪を犯すものではありませんのに。
公子 いえいえ、貴女の為ならば、私はどんな罪でも犯します……人を殺すことさえも。
女子 そのような恐《こ》わらしいことを申すものではござりませぬ。人を殺すのは、自分を殺すと同じではござりませぬか……。
(暫く無音にて両人顔を見合わす。突然、公子は女子の手を取る、女子はそれをこばまんとして能《あた》わず。公子は取りし女子の手を唇にあてんとす。奥より不意に、笑声起こる。女子取られし手を振りはなし)
女子 あれ笑い声が聞こえます。
公子 我等二人を笑ったのではありますまいに。
女子 いえいえ、それを案じたのではござりませぬ。あの笑い声の中に。(と恍惚となり笑声せし方に二三歩進む)
公子 (女子を支え)あの笑い声の中に……。
女子 はい、あの人[#「あの人」に傍点]の笑い声が混ざっているのではありますまいかと……。
公子 あの人[#「あの人」に傍点]とは……。
女子 私の恋しい人でござります。
公子 (意気ごみ)恋しい人……。
女子 恋しい恋しい人でござります。
公子 それは誰のことでござります?
女子 紅の薔薇の送り主。
公子 ええ。
女子 はい、紫の袍を着て、桂の冠を冠り、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家のことでござります。
公子 (憤慨の語気)貴女を魔道に導く誘惑だと知りながら……誘惑の主と知った今も、尚そのように恋しいのでござりますか。
女子 どうしても恋しいのでござります。(悲しげに)恋しく思わねばならぬ義務のあるように……。
公子 恐ろしくは思わずに。
女子 恐ろしさと恋しさとが、今は一つになりました……。恐ろしいのか恋しいのかも知れませぬ。
公子 ああ貴女は……呪詛《のろ》われた女ですぞ。(力強く)私は、そう申します、貴女は呪詛われた女だと。
女子 紫の袍、桂の冠、銀の竪琴の人。(とすすり泣く)
公子 (暫時手を胸に組み、然《しか》る後に女子を見る。憤然と)――お聞き下さい!
女子 はい!
公子 私は決心致しました。屹度《きっと》貴女を誘惑者の手には渡しませぬ。
女子 いえいえ、それは……。
公子 お聞き下さい! 私は屹度、貴女を救ってごらんに入れますぞ!
女子 いえいえ、それは……はい、それはとうてい無駄のことでござります……。私の心は紅いこの薔薇の花から、離れることは出来ませぬ……。暗《やみ》の中にて、罪悪の手に培われた血薔薇の花!(と紅き薔薇に唇をあつ)
公子 (窓外の月を眺め)あの月がひとまず沈み、やがて再び現われる頃、貴女は私の所有《もの》です。
女子 明晩のことでござりまするか。
公子 明晩の今頃は、月桂樹の冠と共に、貴女は私の所有です。ああ明晩私の弾くバイオリンの曲は、死んだ母と、私ばかりが知っている「死に行く人魚」の歌でござります。あの歌には母の思いが篭っています。(間)あの歌を明晩は音楽堂で弾くのでござります。そして競争に打ち勝つのでござります。そして貴女を私の所有とするのでござります。(力強く)私の弾く短ホ調のバイオリンの曲は、あらゆる総ての楽器に打ち勝つでござりましょう。
(奥にて大勢の笑声、諸々の楽器の音……やがて燈火を携えし、以前の使女二人、左の口より入り来り、公子に丁寧に礼をなし、女子に向かい)
使女A お嬢様はまだ此処においででござりましたか。
女子 若様と明晩の競技のお話をしていたところ。(やや小声にて)そして、あのお方は奥においでではなかったかえ。
使女B 浅黄色の袍の人、萌黄色の袍の人、蛋白石よりも涼しい白い色の袍の人は幾人もおいでになりますが、紫の袍の人は一人もおいでではござりませぬ。
使女A 真鍮に銀の鋲を打った冑、金襴で錏《しころ》がわりに装飾《よそお》った投頭巾《なげずきん》、輪頭形《りんどうがた》の冑の頂上に、雄猛子の鬚をつけた厳《いか》つい冠もの[#「冠もの」に傍点]、そのような冠もの[#「冠もの」に傍点]を冠《かむ》った方は数多く見えましたが、桂の冠をかむった方は一人もお見えなされは致しませぬ。
使女B そして銀の竪琴を持った人は一人おいでなされましたが、そのお人は、白髪の老人でござりました。
女子 ……白髪の老人……。(と不思議そうに考える。――奥にて盛んなる笑声と、楽器の音)
使女A 私共二人は若様とお嬢様とをお迎えに来たのでござります。お殿様が、若様とお嬢様とを、お客様の方々へ、紹介《ひきあわせ》るによって、連れて参れと申したのでござります。
使女B お殿様
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