と窓外を見る、月光水の如く窓より差し下る。これより以前、二人の使女は立ち帰りしが女子と公子と語り合うを見て、何か囁き合うて退場)
公子 その悪い運命の呪詛が、母の身の上へ落ちた晩も、(間)ああ今夜のように月光の青い晩でござりました。死んで行く人へ着せる経帷子《きょうかたびら》に螢の光がさしたような、陰気の晩でござりました。ああ丁度今夜のような、(女子は身を震わす。風吹く)母が寝台から不意に立ち上がりました。(間)傍に寝ていたその時八歳の私へ、チラリと横眼をくれたばかりで――それは母が私にくれた最後のなつかしい眺めでござりましたが。母は寝巻姿のままで裏庭へ立ち出でました。ふらふらと歩く姿は、夢遊病患者のようで、やさしい肩から垂れた懸《か》け衣《きぬ》が、空の光で透き通るほど白く見えました。(間)母は裏庭の細道をトボトボと辿るのでござりますが、その時の母の姿は未だに私の眼に残っています。肘まで露骨《あらわ》に出た、象牙細工のような両手を前にさし出して、足をつま立てて、おるのでござります。もすそ[#「もすそ」に傍点]は道の露にぬれて、袖ばりが夜風に払われて、ハタハタと翻ります。母の歩く道には真紅《まっか》の罌粟《けし》の花が、長い茎の項に咲き、その花がゆらゆらと揺れて、母の行くのを危ぶむように見えました。(間)母が両手を前へ差し出した様子が何者かを捉えようとあせっている風に見えましたので、私は窓越しに母の行手を見つめましたが驚いたのでござります。(間)一人の騎士姿の音楽家が、月光に全身をあびせたまま、いと誇り顔に立っているではござりませぬか。(間)夜眼にもしかと認めたのは、紫の袍と、桂の冠と、銀の竪琴とでござりました。そして銀の竪琴をかき鳴らしては、母を海辺へ導いて行くのでござります。竪琴の曲は聞きまがうようもない、短嬰ヘ調で始まる、「暗と血薔薇」の曲でござりました。(間)やがて母の体はその音楽家の両手の中に埋もれました。(間)二人は抱き合ったまま海に臨んだ断崖へ昇って参ります。ああ、ああ、あの夜の物凄く、神秘に充ち充ちた有様と云うものは……空の光に迷う梟《ふくろ》の声、海の波間で閃めく夜光虫、遠い遠い沖の方から、何者とも知れぬ響が幽《かすか》に起こり、暫《しばらく》して鳴り止みますと、後は森然《しん》としています。……丁度、今夜のようにものごとが密やかに見られる晩でござりました、(間、四方を眺め)丁度、今夜のような。(海の遠鳴聞こゆ)
女子 (四方を見廻し)体《からだ》がぞくぞくと寒くなって参りました。恐いお話でござりましたこと。……ほんに今夜は気味の悪い晩でござりますこと。……そして、何者か、迫って来るように。……
公子 あの晩は丁度今夜のように、室には燈火一つ無く、窓の外ばかりが青海の底のように冴え冴えとした沈んだ光で取り巻かれておりました。じっとしていると、何者か背後から迫って来はしないかと思われて、そっと振り返って見たいような、おびやかさるる晩でござりました。丁度今夜のように……
女子 (卒然と背後を振り返り)ああもう、そんなことはおっしゃらずにいて下さいまし。私はもうもう、気絶しそうに思われてなりませぬ。……あのそして、それからお母様はどう遊ばしたのでござります。お母様の運命が早く知りたいように思われてなりませぬ。……そして何んとなく、私の運命が、貴郎のお母様の運命と似ているように思われますのは、どうしたものでござりましょう。……ただ何んとなく、そのように思われますのは……。
公子 同じような誘惑が、振りかかっているからではござりますまいか。(四方を見)ああ、如何《いか》にも今夜は、あの晩によく似た晩でござります。(梟の啼き声聞こゆ)あれ梟も啼いているではござりませぬか。
女子 (胸に手をあてる)悪い運命を導いて来るような厭な鳥の声でござりますこと。……そして今夜に限って、あのように啼いている。……お母様はそれからどう遊ばしたのでござります。若様。
公子 母の姿が岩の頂上に立ったのを窓越しに見たのが、最後の眺めでござりました。(間)翌日、母の白い屍は、海の面に浮いておりました。あおむき[#「あおむき」に傍点]に水に浮いている様子が人魚そっくりでござりました。(間)鴛鴦の浮くべき海の上に、人魚の屍が浮かんだのでござります。(間)恐ろしい誘惑ではござりませぬか。(間)紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った騎士姿の音楽家が誘惑の主でござりますぞ。
女子 私は……そのお話を聞いております中に、何んだか自分の運命が、間近に迫ったように思われて参りました。(入口をすかし見て)私にはあの入口の背後に、騎士姿の音楽家が彳《たたず》んでいるように思われます。あの扉が今にも開いてその人が、光り輝く魔法の瞳で私の眼をひきつけはしない
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