かれて、身も心もまかせるようになるのでござりましょう。
公子 それは何故でござります。
女子 別れる時その人は(と紅の薔薇を唇にあて)これこの紅の薔薇の花を、娘の胸へさして、そしてこのように申しました。「今度お前と逢う時は、お前の幸福になる時だ」とこのように申しました。そして何時の間に来ていたやら、岸に着いていた帆舟に乗って、南の方へ消えて行ってしまいました。帆舟が地平線の背後へ消えてなくなるまで娘は見送っておりました。(長き沈黙)それから後は娘の心は、しじゅうその音楽家の姿に引きつけられ、忘れることは出来ませぬ。時々忘れかけようと致しますと、たちまち別れる時の言葉が聞こえて来ます。……それが娘には何んとなく、恐いと同時になつかしいのでござります。(間)娘は心の中で、あの音楽家が娘の体と心とを、永久に支配する人のように思われてしまいました。(間)今も今とて、堅くそう信じているのでござります。
公子 その怪しい音楽家は、どのような姿をしておりました。(思いあたると云う様子)
女子 (ためらわず)紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い美しい、騎士の姿でござりました。
公子 (思わず立ち上がり)ああ、それは、ほんに、ほんに、ほんに恐ろしい誘惑でござりますぞ。私は誓って申します。それは世にも恐ろしい誘惑でありますと。……私の死んだ母も、その誘惑のため、不貞の女となったのでござります。
女子 (驚き)貴郎のお母様。
公子 決して偽《いつわり》は申しませぬ。紫の袍を着て桂の冠をかむり、銀の竪琴を持っている騎士姿の音楽家なら間違いなく母の敵《かたき》でござります。
女子 (戦慄)私は何やら空恐ろしくなりました。一体貴郎のお母様はどうなされたのでござります。
公子 私の申すことを信じて下さいまし。(力を籠め)母はその恐ろしい男のため不貞の罪を犯しました。そしてそれが母の最後を急がせました。……思っても恐ろしい、そして憎んでも憎み足らぬあの悪魔……悪魔悪魔。
女子 ただそれだけでは私にはよく解らないのでござります。いま少し詳しくお話しなされて下さいまし。(間)ああ、私の心は、どうやら寒くなりました。聞かぬ中からその時のことや、その場の様子が眼に見えるようでござります。
公子 (やや沈着となり窓に行き音楽堂を眺む。夕陽消えて暮天暗し。月の昇らんとする様見ゆ)ああ日が暮れた。(沈思女子の顔を熱心に眺め、力をこめて語り出す)今音楽堂のある対岸の岩の上には、十年以前、小城のような邸宅が立っていたのでござります。(娘も窓に行きて音楽堂を眺む)その小城で若い領主は、美しくそして操《みさお》の正しい女子を妻として、八年間、そこに暮しておりました。その女子はバイオリンの名手でござりました。(間)それが私の母であるのでござります。(間)二人の間がどのように幸福であったか、その睦まじさがどんなに人々をうらやませたかは申さずとも、貴女はお察し下さるでしょう。近隣の人々は、あの小城の下の海には、つがいの鴛鴦《おしどり》がいつも浮いていると云いふらしましたくらい。――二人がよく小舟を浮かべて、小城の下の静かな海で漕ぎ廻ったからでござります。(間)母はまるで白い人魚のように見えました。で誰云うとなく人々は、母のことを人魚人魚と申しましたが、母もしまいには、自分ながら、自分を人魚だと申しておりました。(間)人魚はよく歌いました。歌った歌は、「死に行く人魚」の歌と云って、憐れっぽい歌でござりました。その歌の大体の意味はこう云うのでござります。――海の都に人魚の姫が住んでおりました。或る日の夕暮に、ふと[#「ふと」に傍点]海の面へ浮かびますと、一つの赤い帆の舟が直ぐ手前に浮いておりました。舟の船首《へさき》には一人の美しい公子がおりまして、人魚に笑いかけ、そして手に持っていた銀の竪琴をかき鳴らし、誘惑の歌を歌ったのでござります。歌声が人魚に聞こえた時、人魚は海の都を忘れ果て、その公子を慕うようになったのでござります。(間)人魚は公子の乗っている舟を追いました。(間)舟は次第次第に地平線の方へ辷《すべ》って行きまする。公子はその舟の船首で声高々と誘惑の歌を歌います。(間)人魚が追えば追う程、舟はだんだんと遠ざかりまして、青褪めた月が海上に昇り、屍のような水の色が、海の面《おもて》を蔽《おお》うた時、人魚も舟も地平線の背後へ隠れてしまいました。(間)そして人魚は永久に海の都へは帰って来ず、海の都では行方知れずの人魚を浮気心だと云って憎みました。……歌の意味はこのようなものでござりましたが、母はこればかりを歌っておったのでござります。(長き沈黙)恐ろしいことでござりました、不思議なことでござりました。その人魚姫の運命が、さながらに母の身の上へ落ちて来たのでござります。(
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