見る毎に、この女は、どうしても果敢《はかな》い運命の女だと思わずにはいられなかった。(長き嘆息)その思いは誤らなかった。
従者 御前様、そのことを思い出しましてはお為《た》めになりませぬ。そんな無惨なことは思わずに、あの頃の楽しかったことばかりをお思い出すに限ります。追想は、いずれ美しく見えるものでござります。ちょうど、桃色の霧で蔽《おお》われた、縞瑪瑙の丸柱を見るように、(間)御前様、奥様は花に溜った露でお化粧をするのがお好きでござりましたな。
領主 (恍惚と)そうだ、彼女は小鳥よりも早く起きて、花園に下りて行き、数條に分かれた庭の小径を、絹の薄物をゆったりと肩から垂れたばかりの朝姿で、アルハラヤ月草や、こととい草や沈丁花の花の間を、白鳥よりもしなやかに歩き廻った。そして花弁に溜った露の滴を、百合の花のような掌に受けて、それで金色の髪をとかした。金色の髪は、耳朶《みみたぶ》を掠めて頬を流れ、丸い玉のような肩に崩れ落ちた。それを左の手でそっと梳《す》き、また右の手でゆっくりと梳いた。梳く度に、薔薇色の日が金髪に映って、虹のような光がそこから湧いた。(間)梳き終わるとそのまま金髪を背に垂れて、傍の小石へ腰を掛け、この場合にも抱えて来た、バイオリンを弾き出すのだ。
従者 何の曲をお弾きなされました。
領主 「死に行く人魚」の歌。
従者 その歌は不吉の歌ではござりませぬか。
領主 そうだ。
従者 何故、そんな不吉の歌をお化粧する間もお歌いなされたのでござりましょう。
領主 その頃は解らなかったが、今になってその意味が少しは解って来たように思われる。あの不幸の女は、自分で歌って自分で泣き、悲しい歌に同情して、それで心を慰めていたらしい。
従者 何故でござりましょう。お殿様と云う立派な情人《おもいびと》がおありなさること故、そのようなことをして、自分の心を慰めずとも、よかりそうなものではござりませぬか。
領主 いやいや、彼女《あれ》は不思議な神経を持っていて、自分の運命の行方を、その時分から、知っていた。
従者 と申しますと?
領主 彼女自身が、死に行く人魚だったのさ。
従者 私にはよく解りませぬが。
領主 誰によく解るものか、一緒に連れ添っていた俺にさえ、彼女が死んで十年も経った今日、やっと少し解りかけた程だもの。(間)だが不思議な運命――魔法使いの銀の杖から音なく形なく現われる、奇怪な運命が、しじゅう彼女の身の上にふりかかっていたことは、確かであったと云うことが出来る。
従者 そんなものが世の中に、あるものでござりましょうか?
領主 あればこそ、彼女が、あんな不幸な最後を遂げたじゃないか。(間)この世の中には神秘の門が、数限りもなく立っているが、それを開ける鍵は一つもない。
従者 奥様はその鍵の一つを持っていたのではござりますまいか。
領主 (従者の顔を見詰め)お前は面白いことを云う。(眼をそらし)彼女は鍵は持っていなかったが、神秘の門を幾度も幾度もおとずれたことはあった。だがそれは、ただおとずれたばかりだった。
従者 お偉い方でござりましたな。
領主 偉いか偉くないか知らぬけれど、不幸の女だった。(間)俺にとっては一生忘れられぬ強い強い記憶である。――
従者 その奥様と、今度この館へ参られた女子《おなご》とが似ていると申すのでござりますか。
領主 (深く頷き)その通りだ。
従者 どこが似ているのでござります。
領主 何から何まで。
従者 あの女子は、バイオリンを弾かぬではござりませぬか。
領主 手では弾かぬが心ではいつも弾いて歌っている。
従者 と申しますと?
領主 文字でも言葉でも絵でも表わせぬあるものをいつも思っていると云うことさ。
従者 それが音楽でござりますか。
領主 音楽だ、それが魔のような音楽だ、それが恐ろしい運命だ!
従者 恐ろしい運命! それではあの女子の身の上にも、魔法使いの銀の杖から湧いて出ると云う、悪い運命が、つきまとっているのでござりますか。
領主 (にわかに立ち上り)ああ、その悪い運命が、つきまとっていればこそ明日の競技が行われるのだ。
従者 と申しても私には解りませぬ。
領主 (寝台より離れて窓口に行き、対岸の頂上に立てる音楽堂を指す)お前にあれが見えるかの?
従者 (領主と並びて窓口に行き)はい、かすんだ眼にもよく見えまする。
領主 何と見えるかの?
従者 以前《まえ》の奥様の記念として、お殿様が業々《わざわざ》お立てなされた音楽堂でござります。
領主 そうだ、前の妻と二人で住んだ対岸の岩の上へ、果敢《はかな》い恋の形見として立てたのが、あの音楽堂だ。あすこには妻の魂と、音楽と、恋心とが籠もっている。(烈しき怒り)そして不貞と! (沈黙。――長き嘆息)そして、そして悲しき運命と、怪しい呪詛と。
従者 
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