、そのようなお心得違いのある世の中に、私のような賎しい奴が、考え違いをするのはあたりまえでござります。
領主 そのように、ムキにならずとものことだ。そんなら何か、近頃俺が皆の者に対して不親切になったから、それが気に食わぬと云うのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は大変にソワソワなされます。まるで十七、八の若者が初恋を知った時のように。
領主 (苦笑)それが気まずいと申すのか。
従者 そればかりではござりませぬ。近頃は何彼《なにか》と疑い深くなられました。これもあの女子のためでござりましょう。
領主 あの女子、あの女子とよく云うが、彼女《あれ》は決して悪い女ではない。ほんの無邪気な性質で、例えて云って見れば、空を自由にかけたがる白い雲のようなものだ。(少し考え)もっとも、あまり空をかけたがるので、心もち、フワフワとしてはいるが、それが決して、あの女子の美しい容貌と正直の心とを傷つけはしない。
従者 よく存じておりまする。
領主 それではもうよいではないか(とまた窓に向かわんとするを従者は再び引きとめ)、
従者 たとえ、女子の性質はよいと致しましても、お殿様の御性質《おこころもち》お振る舞いを近頃のように変えさせますれば、何のためにもなりませぬ。却って悪い性質の女子でも、お殿様の性質《おこころもち》[#「性質《おこころもち》」はママ]を変えぬならば、その女子の方が御身の為また私共の為かと存じます。……一体、あの女子は、どこからお連れなされました。
領主 海の彼方《むこう》の淋しい浜辺から、(と窓を離れて丸テーブルの傍の寝台の上に腰をおろす)、海の彼方の淋しい浜辺で、消えて行く帆舟の影を泣きながら見送っていた――あの女子が見送っていた。――それを俺が連れて来たのだ。(間)あの日は、涙ぐんだ日が浜に散っている貝殻と、水に濡れた大きい岩と、そして女子の頬を伝う二筋の涙とを白く照らしていた。女子は忍び泣きに泣きながら、片手に赤い薔薇の花を持ち、それを高く振りかざし、地平線の辺へ消えて行く帆舟を見送っておったのだ。荒れ果てた海岸の淋しい淋しい午後だった。
従者 (領主に向かい合って椅子に腰をかけ)何故そんな女子をお連れなされました。
領主 (恋しそうに)以前《まえ》の妻に似ていたからよ。
従者 (思わず立ち上がり)以前の妻! と申せば、あの若様のお母様《かあさま》の……。
領主 (昂奮して)そうだ、あの不貞の妻に似ていたからさ。
従者 御前様。
領主 不貞の妻だが恋しい女だ。あの女のことを思えば、身も心も消えて行きそうだ。(と思慕の情に耐えざる様子)
従者 御前様。
領主 (その当時を思い出し、声も瞳も力を増す)以前の妻と一緒に住んでいた頃は、俺もお前も若かった。
従者 (なつかしそうに)十年前でござりました。
領主 俺には昨日のように思われる。けれどもまた、この世ではなく、他界の消息のように思われる。ああ、思ったとて考えたとて、二度と再び、あんな幸福の日は送れないと思えば、あの頃の生活が、追いすがって引き止めたいようだ。
従者 私もそんな気がいたします。
領主 十年以前と云えば俺もこんなに衰えてはいず、お前もそうまで年を取ってはいなかった。(間)彼女《あれ》と俺とは(と窓を通して音楽堂を見る)今音楽堂の建っている対岸の岩の上に、小城のような家を構えて住んでいた。そこには水晶のような水を吹き出す噴水も、レモン薔薇の咲き乱れる花園もあった。宵毎に花園には露が下り、虫がその陰で鳴いていた。朝毎に小鳥が囀《さえず》り、柑子レモンの花が小鳥の羽搏《はばた》きで散り乱れた。そして音なく窓にとまり、妻はその花弁を唇に含んで、俺の唇へ口渡しに移してくれた。その時妻の金髪は恋しさにふるえ、妻の眼はしばしも離れずに俺の瞳を見詰めていた。
従者 奥様はバイオリンの妙手でございました。
領主 そうだ、それが何よりも俺の心に残っている。彼女《あれ》はバイオリンの妙手だった。紅宝玉と貴橄欖石とで象眼したバイオリンは、いつも彼女の腕に抱えられていた。
従者 (なつかしげに)奥様は花園を見下ろす窓に倚《よ》って、いつもいつも哀れっぽい歌をお弾きなされました。(間)花園の彼方は底の知れぬ青海で、奥様は人魚が波間に見える見えるとよく申されました。
領主 彼女が歌った歌は、みんな哀れっぽいものばかりだったが、その中でも、「死に行く人魚」の歌が一番悲しい節の歌だった。彼女がこの歌を歌って弾く時は、きっと涙ぐんだ眼で海を眺めた。その様子が、海の中に歌の主の人魚がいて、その人魚へ歌を送ってやると云うように見えた。(間)そしてあの歌を弾きながら歌う声は、ちょうど潮が深い深い洞穴の奥へ、忍びやかに寄せて行くように、幽《かすか》にそして震えていた。(間)俺は、あの歌を唄う彼女を
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