ると海の遠くの遠くの方に、灰色の帆舟が一艘|辷《すべ》って行くのよ。……空と海とが一重に見える遠くの方へ。……私は心の中で、あのお舟の中にお姉様はいる。……あのお舟でお姉様は私の知らぬお国へ行くんだと思ったの。……そしてもう為方《しかた》がないのよッて思ったの。それでもお姉様、私は三度ほどお姉様を呼んだのですよ。……白い鴎が飛び返って来るばかりで、お姉様のお声は返って来ないのよ。(姉を熟視し)お姉様! あのお舟でお姉様は此処へ来たの。
女子 (厳粛に頷き)ヨハナーンや、それからお前さんは今日までどうして日をくらしていたのです。え。
少年 一人でくらしていたのよ。お姉様の弾いていらっしゃった七弦琴を弾いてね。
女子 どんなお歌を弾いていたの?
少年 私のような年格好の小供の、知っているようなお歌よ。
女子 どんなお歌? ……それを私に弾いて聞かせておくれ。
少年 ええ、ええ。(と躊躇せずに弾き且《か》つ歌う)
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南の国の王様が
レモンの花の夕暮に
銀のお笛を吹いている。
銀のお笛は山越えて
湖《みずうみ》こえて鳴ったれば
レモン林の姫様が
明日《あす》は行きます
待ってやと
玉の琴音をかき鳴す。
[#ここで字下げ終わり]
女子 まあまあ、そんな可愛いお歌を歌っていたのかぇ。
少年 このお歌を歌ったり弾いたりしていたのよ。……けれどもね、その中に私はこのお歌が嫌になったのよ。
女子 何故でしょうねぇ。そんなに可愛いお歌を。
少年 可愛いお歌! そうですわ。このお歌はほんとに可愛いお歌ですわね。けれど私、もうこんな可愛いお歌は厭になったんですの。……もっと、もっと、悲しいような、身にしみるお歌が弾きたくなったのよ。……それでね、お姉様!
女子 それで別のお歌を弾いたのかい。
少年 ええ、ええ、別のお歌を弾いたのよ。……あのお歌を弾いたのよ。「その日のために」って云うお歌を。
女子 まあ。
少年 けれども私、今も云った通り、あのお歌は節《ふし》だけは知っているけれども、文句は知らないんでしょう。だから私、ただ七弦琴に合わせて、節だけ鳴らしていたんですの。……歌は歌わないでね。……けれども私、その中に節だけでは物足らなくなって来たの、どうしてもお歌の文句を知りたくなったのよ。……そして、お姉様! そしてお姉様が恋しくなったのよ。……お姉様に逢いたくなったのよ。……毎日毎日私はお姉様のことばかりを思っていたのよ。
女子 それで姉様を此処まで尋ねて来たの?
少年 ええ、ええ、そして、とうとうお姉様と逢われたわ。
女子 (不思議そうに)けれどねぇ、ヨハナーンや、どうしてお前さんはお姉様が此処に居ることを知ったんです。……そしてどうして一人で此処まで来られたの。
少年 (首を振り)いいえ、お姉様、私は一人で来たんじゃないのよ。
女子 (驚き)一人でない?
少年 大きい人と一緒に!
女子 大きい人?
少年 大きい恐い人。
女子 (無音。――やや思いあたれるが如き様子)ああ。
少年 大きい恐い、そして影のような人と一緒に来たのよ。お姉様。
女子 ヨハナーンや。……そしてその人は。……あのお前さんを……。
少年 ええ、ええ、私を引っぱったり押したりして、此処までつれて来たんですわ。前に立ったり背後《うしろ》に立ったりしてね。……私はその人の歩いて行く方へ歩いて行ったの。……押されるまんまに押されて来たのよ。……私はね、心の中で思ったの。……この人が私をお姉様の所へ連れて行くんだとね。ええ、ええ、その人は唯フッと現われたのよ。フッと現われた人だけれど、なんだか大変偉いようなお人だわ。そして恐いお人よ。……その人はね、いつも私に囁いているの。「行け行け! ただ行け、行け! お前はどうしても行かねばならぬ!」こう私に囁いているのよ。
女子 (凝然たる瞳を以て黒幕をすかして塔を眺む。――失望の色は顔を鉛色に染む)ただ行け行け! お前は行かねばならぬ! その影のような人がそう云ったんだね。
少年 ええ、ええ。
女子 塔の人。塔の人。
少年 お姉様! (と姉を恐ろしげに眺め)そのお人は悪い人ですか……。
女子 いいえ、(間)いいえ、(間)いいえ。(間)
少年 恐い人ですか?
女子 いいえ、(間)いいえ。……その人はね、塔の人ですよ。塔の人……。
少年 お姉様! 私には……わからない……強い人なの?
女子 もうもう、何もお聞きでない。お前さんは、その人に連れられて来たんですもの。……恰度《ちょうど》私が灰色の帆舟で連れられて来たように。……ヨハナーンや! ……その人と一緒に三つの門を越して来られたんでしょうねぇ。
少年 (深く頷き)ええ、ええ、三つの門を越して来たのよ。
女子 やすやすと越せたかぇ。
少年 ええ、ええ、安々《やすやす》と
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