、一緒にいつまでも居られるんでしょう。……そして、(笑い)だから、ほら、あの日は二度逢えぬお別れの日じゃなかったわ。
女子 いいえ、ヨハナーン。(と厳《おごそ》かなる言葉と態度を以てヨハナーンに迫る。ヨハナーン、何んとなく、一大事を明かさるるにはあらずやと思う如く、姉の顔を注視す。緊張せる沈黙)
女子 ね、ヨハナーンや。……今お前さんは、歌の節だけは知っているけれど、文句を知らぬと云ったじゃないの?
少年 ええ、ええ、お姉様、私文句は知らないのよ。
女子 ね、そうでしょう。……そしてお前さんはそのお歌の文句を知りたくて来たんでしょう。
少年 ええ、ええ、そうですよ。
女子 ね、そうでしょう。……だから二人は逢われたんです。……あの日お前がいま少し大きければ……。
少年 お姉様! (と深刻の眼つきと声)……恐《こわ》い!
女子 (四方を見て)いいえ、恐いことはありません。……ただね、二人は此処であのお歌を、いま一度歌うのです。
少年 (何となく総てを知りしが如き様子)お姉様が歌うのを私は聞いているの。
女子 ええ、ええ、そうです。
少年 (姉の手を取り)お姉様! そして私がそのお歌の文句を覚えるんでしょう。
女子 ええ、ええ。
少年 (身をふるわせ)お姉様! そして二人は別れるの。
女子 (ヨハナーンを抱かんとして手を出し)ヨハナーンや、そんな……。
少年 お姉様、此処《ここ》が! (と胸を抑え)大変躍るのよ。
女子 いいえ、いいえ。……そんなこと。
少年 あの日のように大変躍るのよ。
(二人は立ち向かいしまま無音。戸外は風と水の音。やや長き沈黙。――やがて相方進みよりて顔を見合わす。――突然ヨハナーンは痙攣的に泣き出す。姉はそれを抱きしめ)
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや、泣いてはいけませんよ、いけませんよ。私はお前と一緒に此処に居りますからね。いいえ、別れるんじゃありませんよ。ね、ね、ね、ヨハナーンや。……何故泣くんです。……泣くのはおやめ、泣くのはおやめ! 泣くのをやめて、さあ、お話のつづきを話しておくれ。ヨハナーンや……そしてどうしたの。私が歌を歌った後でどうしたの?
少年 (泣くのをやめる)お姉様! (とすすり上げ、また胸を抑えて、恐々《こわごわ》四方を見廻す。姉は密かに窓に行き、黒き布を窓に垂れる)
女子 ね、もう胸の動悸も直ったでしょう。……泣くのはおやめ! ……そして話のつづきを話しておくれ。(独言の如く)ああ、このような昔のことを、二人で話すのもほんの僅かだ。……塔の中、塔の人!
少年 (恐る恐る)それからねお姉様!……お姉様がお歌をお歌いなされた後で、私に二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を下されたでしょう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]を。――お姉様、それを覚えていて。
女子 いいえ、(頷き)ああ、そうそう。二つのうらうづ貝[#「うらうづ貝」に傍点]をお前さんにやったっけねぇ。……そしてお前さんはそれでどうしたの。
少年 一つを眼にあて、一つを耳にあてるんだって、お姉様はおっしゃったでしょう。
女子 (無音)
少年 私はその通りにしたの。……大きい方を耳にあて、小さい方を眼にあてたのよ。……するとお姉様はこう云ったでしょう。「耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ろ!」って……。
女子 (無音)
少年 私は一生懸命に耳の貝で海を聞き、眼の貝で海を見ていたのよ。……するとお姉様がまた「ヨハナーンや、どんな音が聞こえます」って聞くの。「何も聞こえませんよ」って私は答えたわ。ほんとに何も聞こえませんもの。するとお姉様は「その筈です」と云ったわね。お姉様!
女子 (無音)
少年 するとまたお姉様は「ヨハナーンや、海の上に何が見えて」って聞くんです。何も見えないんでしょう、だから私「お姉様、お姉様、何も海には見えません。ただ暗いばっかりよ」って答えたの。「その筈です」ってお姉様は、淋しいお声で云いました。――そして少し経《た》ってから、またお姉様は、「ヨハナーンや、お前さんは沈黙と暗黒とを見ているね、暗黒と沈黙とを聞いているね」っておっしゃるの、そして直《す》ぐにまた「ヨハナーンや、姉様はその沈黙と暗黒のおそばへ行くんですよ、――さようなら、……あれもう灰色のお舟が迎えに来てよ」っておっしゃるの。私は吃驚《びっくり》して耳の貝と眼の貝とを一緒に取ってお姉様の方を振り返ったのよ。
女子 ヨハナーンや、姉様はもうその時、岩の上にはいなかったんでしょうね。
少年 ええ、ええ、いなかったのよ。今までお姉様のいらっしゃった岩の上には、お姉様がしじゅう弾いていらっしゃった七弦琴が置いてあったばかり。……ね、この七弦琴が。(と自分の持ちたる七弦琴を差し出す)そこで私は、岩の上に立ち上がって海の方を眺めたのよ。す
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