思われたのよ。……その人が青い冷たい顔をして寝台の上に寝ているの。その人を取りかこんで沢山の人が泣いているの。お室は寂《しん》として淋しいのよ。そして四方が暗いのよ。窓からはね、黄いろいお日様がのぞいているばかり……。
女子 (思いあたれる如く)ヨハナーンや!
少年 その日から私は、もうそのやさしい女の人を見ることが出来なかったの、そして何んだか物足りないような気がしたの。
女子 ヨハナーンや、それはね……。
少年 お姉様、私はその日のことがどうしても忘れられないのよ。
女子 それはねぇ、ヨハナーンや、お母様のお死になされた日のことですよ。
少年 (深く考えるが如き様子。――大人《おとな》の如く厳乎《まじめ》なる表情。やや長き無音)それから外に、もう一つあるの。……忘れられないことが。
女子 云ってごらんなさいな。
少年 それはねぇ、お姉様。(と姉を熟視す)
女子 どんなこと?
少年 (声をひそめて。姉の顔を熟視せるまま)あのお舟よ!
女子 お舟ですって?
少年 灰色のお舟よ!
女子 (無音。考う)
少年 お姉様を遠い所へつれて行った。
女子 (ハッとして、眼を見張り、立ち上がる)まあー。
少年 (勢いこんで、言葉急に)灰色のお舟よ、灰色のお舟よ、お姉様をこんな所へつれて来た灰色のお舟よ。……あの恐い小さいお舟が私の眼にちらついているの。
女子 (打ち消さんと)ヨハナーンや、それはお前の何かの思い違いですよ。(小声にて)ああ、けれど、小供の神経と云うものは、小供の記憶と云うものは……何んて不思議に……ヨハナーンや、(少年の首を胸に介《かか》え)ヨハナーンや、そんなことは忘れてしまうものですよ。あんなことはね。覚えていても益のない、ほんの妄想と云うものです。……ヨハナーンや……何も何も……。
少年 いいえお姉様、私はどうしても忘れることは出来ないのよ。……あの日にお姉様が始めて私へ、あのお歌を教えて下さったんですもの。……「その日のために」って云う悲しいお歌を。
女子 まあ。
少年 あの日私は大変|此処《ここ》が躍っていたのよ。(と胸に手をあてる)そして、泣きたいような気がしたのよ。泣いたって駄目よっと思うけれど、それでも泣きたいような気がしたの……そしてね、お姉様!
女子 (ヨハナーンを憐れ気に見る)
少年 私はもうちゃんと知っていたのよ。
女子 何を知っていたのです。
少年 お姉様と別れることを。
女子 まあ……ほんとにかい。……ヨハナーンや。
少年 ええ、ええ、ちゃんと知っていたのよ。何故って云うにね。その日の気持ちが、恰度、あの日に似ていたからよ。
女子 あの日?
少年 私に親切だった女の人と別れる日に。……寝台の上の……。
女子 まあ。お母様と別れる日とかぇ。
少年 ええ、ええ。……そうよ。だから私は心の中で今日はお姉様とも別れるのだと思っていたのよ。
女子 ヨハナーンや。――お前さんは!
少年 あの日二人は、岩の上に座っておりましたっけねぇ。二人の前には濁った海がどんよりと広がっておりましたわ。雲が遠くの海に垂れて、空と水とが同じ色に染めつけられていましたわね。……二人は岩の上に座ったまま黙って考えておりましたわね。何故黙っていたんでしょう。
女子 いろいろのことを考えていたからですよ。
少年 その中に急にお姉様が歌をお歌いなされたわ。おのお歌を[#「おのお歌を」はママ]、「その日のために」って云う悲しいお歌を。……なぜ、あんなお歌を歌ったの?
女子 (暫時沈黙。やがて総て決心せるが如き語調にて簡単に)歌う時が来たからですよ。
少年 歌う時が?
女子 ヨハナーンや、あのお歌はね、お母様が私共を棄てて遠い遠い所へ行かれる日(塔をチラリとすかし見て小声にて)あの塔の中へ行かれる日、(大きく)私に教えて行った歌ですよ。……もう二度逢えぬ名残りだと云ってね……。
少年 お姉様!
女子 ヨハナーンや、あのお歌はねぇ。この世の名残りに歌う歌ですよ……。
少年 そんな悲しいお歌を、何故あの日お姉様は歌ったの。
女子 歌う日が来たからですよ。
少年 二度と逢えぬお別れの日が、あの時来たの。
女子 ええ、ええ、あの日がそうです。
少年 お姉様! (と一寸笑い)それだのに今日また二人は逢えたねぇ。……お姉様と私と……。
女子 ヨハナーンや、それはねぇ。
少年 二人は逢われたわ。……そしていつまでも一緒に居られるのよ。此処にねぇ……。
女子 (独言の如く)一緒に居られるって、一緒に居られるって。……ああヨハナーンや、お前さんは、ほんとにそう思うの……。
少年 だってお姉様!
女子 (思い返し)ええ、ええ私共二人はいつまでも一緒に居ることが出来ますとも。……ええ、ええ、居ることが出来ますとも。……だがね、ヨハナーンや。
少年 (無邪気に)ね
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