が塔の頂きに流れている。……いいえ、外には何もありません。(と身を以て窓を蔽《おお》い)ヨハナーンや。
少年 お姉様。
女子 (淋しげに)ね、もう風も吹かないでしょう。
少年 塔の中には何がいるの?
女子 ええ。
少年 塔の中は暗いでしょう。
女子 ヨハナーンや。
少年 塔の中は暗いでしょう、恰度お墓のように。
女子 ヨハナーンや、ヨハナーンや!
少年 お姉様。(泣き声にて)お姉様、塔へ行ってはいやよ。
女子 (こらえず)ヨハナーンや、そんなことお云いでない。……いえ、いえ、塔も何もないんですよ、姉様はね、いつまでも、いつまでも、可愛いお前と一緒に居りますよ。一緒にね、一緒にね。
(場内静。羽虫ときどき青き光を掠めて飛ぶ)
女子 (少年の頭を撫でて)ヨハナーンや、昔二人で一緒にいた頃はほんとに楽しかったねぇ。あの頃のお話をしようじゃありませんか。……悲しいことや恐いことは云いっこなしにして、あの頃の楽しかったことばかりを話し合いましょうねぇ。……何故お前さんはそんなに寂しい顔をしているの、もっと悦《うれ》しそうな顔をおしなさいよ。姉様と一緒にいるんじゃないかい。ね、姉様と一緒に。(小声にて)別れが二人の前に迫ってはいれど。(やや暫時無音――気を取り直し)ヨハナーンや、姉様はお前といつまでも、此処にじっとしておりますよ。ね、だから昔の話をしておくれ。昔お前さんと私と一緒にいた頃の、楽しかったお話を。……二人はお日様の暖かい土地に居たっけねぇ。
少年 (悦しそうに頷き)ええ、ええ、暖かい丘の上に私どものお家はあったのよ。花時《はなどき》にはいい香がかおって来て、桃色の窓掛の裾から私どものお室へはいって[#「はいって」に傍点]来てよ、そして緑色と金色とで羽根を飾った小さい鳥が、しじゅう丘の草原とレモンの花の間と、窓の外の欄干で啼いておりましたっけね。
女子 そのお家にいた頃、お前さんの一番楽しかったことはどんなこと?
少年 楽しかったこと?
女子 今に忘れられない楽しかったことは、どんなことだか云ってごらん。……姉様にそれを聞かせておくれ。
少年 いろいろ楽しかったことはあったけれど、みんな忘れてしまったのよ……。けれどもね……。
女子 ええ。
少年 唯二つあるの。
女子 二つ! そう、それはどんなことなの。
少年 それはね、楽しかったことじゃないのよ。
女子 そんなら悲しかったことなのかい。悲しいお話なら止《や》めにしましょうよ。(間)お前さんが此処へ来たからには、これからはもう悲しいこと寂しいことばかりが、一生つづいて来るのです。……わざわざ昔の悲しいことまで思い出さずともよいのだよ。
少年 いいえお姉様! 悲しいことでもないのよ。ただ忘れられないことなのよ。ええ、ええ、少しは悲しいことだけれど。……それはね、私のほんとに小さい頃のお話よ。或る日私はね、揺籠《ゆりかご》に乗ったままお庭の何処《どこか》へ置かれていたのよ。私の頭の上には広い広い青い幕が丸く一ぱいに広がっていたのよ。
女子 それは晴れきった青空でしょう。
少年 彼方《あっち》からも此方《こっち》からも可愛い声で、私を呼んだり挨拶をしたりして、美しい色の間を飛び廻っているものがあるの。
女子 小鳥が花の間で啼いていたんですわ。
少年 私はじっと黙ってそれを聞いていると、いい香りの風が私の顔をさすって行くのよ。……私は母指を口の中に入れて、それをチュウチュウと吸いながら、眼を細めて呆然《ぼんやり》としていたの、けれども私は寂しかったのよ。何故ってね、一人も私の傍に人がいないんですもの、いつも私を眠らせたり、やさしく頬を吸ったりして、可愛がって下さった女の人も、その日に限っていないんですもの。私は一人でそのお庭に棄てられていたんですの、お姉様。
女子 それからどうしたの。
少年 その中に急に私は泣き出したの。
女子 どうしたんでしょうねぇ。
少年 それはねぇ。黒い大きい幕のようなものが、私の体の上へ垂れ下って来たんですもの。……四方がにわかに薄暗くなって、やさしい歌も美しい色も、一時に消えてなくなったのですもの。……それで私は泣いたのよ。
女子 まあ、それから。
少年 その中にね、私はお庭からお室へつれて行かれたのよ。……お姉様! そのお室に何があって?
女子 姉様は知りません。
少年 四角なもの!
女子 四角なもの?
少年 白いかけ布[#「かけ布」に傍点]をした四角なものよ。……その上に人が寝ているのよ。
女子 ああ、病人の寝台です。
少年 その上に人が寝ているのよ。……冷たい顔をした人が寝ているのよ。……その人はね、いつもやさしい歌を歌って私を眠らせたり、私の頬をそっと吸って下さった女の人なのよ。私はその人の手に抱かれている時にね、一番安心していたんですの。一番気強く
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