。(悲しげに)間もなく別れねばならぬ身なれど……。(ヨハナーンを凝視し)ヨハナーンや、お前さんはそんなにこの姉さまが恋しいのかぇ。
少年 お姉様のことばかりを私はしじゅう思っていたの。……そしてお姉様の歌ったあのお歌を!
女子 「その日のために」と云う歌をかぇ。
少年 お姉様、あのお歌をいま一度歌って下さいな。私はあのお歌を、お姉様のお口から唯一度聞いたばかり故、まだあのお歌の文句をよっく知らないのよ。
女子 ほんに唯一度きり、それもお前さんと別れる日に、唯一度っきり教えた歌だったねぇ。
少年 だから私は、あのお歌の文句を未だ知らないのよ。……けれどもね、節《ふし》だけは知っているのよ。節だけはね。
女子 まあ、節だけは知っているの?
少年 節だけはね。私この七弦琴に合わせて弾《ひ》くことが出来るのよ。けれども文句を知らないから口で歌うことは出来ないのよ。
女子 (考える。――やや長き間)ああ、それも悲しい一つの預言じゃあるまいか。
少年 (心配そうに)お姉様、お姉様、節だけ知っていて文句を知らぬのは大変悪いことですか。ええ何故そんなに心配そうなお顔をするの、お姉様がそんなに心配そうなお顔をすれば、私はほんとに悲しくって。
女子 (心を取り直し)いいえ、何も姉様は心配してはおりませんよ。……だがね、お前さんが、節だけ知っていて、文句を知らぬと云ったから……。
少年 ほんとですもの、私ほんとに節だけは知っているけれど……。
女子 ええ、ええ、そうでしょう。それはいいけれど。(と考え)恰度《ちょうど》、思うことは出来るけれど、知ることが出来ぬと同じようだ。朧《おぼ》ろ気《げ》に感ずることは出来るけれど、ほんとに見ることが出来ぬと同じようだ……。
少年 お姉様は何を云っているの。私には解らないのよ。
女子 いいんですよ。……ああ、けれどもね。
少年 ええ、ええ、お姉様!
女子 お前さんが、その歌の文句を知ることが出来る時は。……お前さんは自分の運命を知る時ですよ。
少年 ……私の運命。……それは何?
女子 此処へ来た運命をね。
少年 (笑い)お姉様、お姉様。私は此処へ何故来たか知っていてよ。ええ、ええ、よーっく知っていてよ。
女子 (驚き)まあ(とヨハナーンの顔を熟視し)知っているの?
少年 そんなこと何んでもないわ! 私はね、此処へ大事の大事のお姉様を尋ねて来たんですもの……。
女子 (少年に頬ずりをし)そうかぇ、そうかぇ、ああ、ほんとにお前さんは無邪気だねぇ。(窓ごしに塔をすかし見て)けれども、あの塔の影を見る時には、もうその無邪気はなくなるだろう……。(少年を抱きしめ)ヨハナーンや!
少年 (何んとなく悲しげに)お姉様!
(両人無音にて顔を見合わせ、かたく抱き合う)
少年 (四方を見廻し)お姉様、このお室《へや》は淋しいね。
女子 (四方を見)そうお思いかぇ、ヨハナーンや!
少年 (恐ろしそうに)お姉様、このお室には何故|燈火《ともし》がついて[#「ついて」に傍点]いないの? ただ高い高い天井から、青い光が落ちて来るばかり。……お姉様! あの青い光は何処《どこ》から来るの?
女子 恐ろしい所から来るのじゃありませんよ。ただ天井から。
少年 (天井を見上げ)天井の高いこと、どこが限りだか解らない。――お姉様、どこが限りなの?
女子 ……姉様も知りません。
少年 お姉様も知らぬ遠い所から、青い光は来るんだね。……お姉様! 何故此処には寝台が無いの?
女子 このお室に居る人は、夜も昼もしじゅう機を織らねばならぬ故。
少年 (不思議そうに姉を眺め)夜も昼も?
女子 ええ、ええ、夜も昼も五色の糸の綾を織るの。(と機を指さす)
少年 (機を眺め)あの機で織るの?
女子 (頷く)あの機で!
(少年機の傍に行き、触り見る。)
少年 冷たい機!
(再び姉の傍に来て顔を見上ぐ。水の音聞こゆ)
少年 お姉様、外には何があるの。恐ろしい水音が聞こえてよ。
女子 あれはね、暗い水門へ流れ入る水の音です……その水門へ流れ込む水は、二度と再び明るい世界へ出られないんですよ。
少年 その水門はどこにあるの?
女子 このお室の外。
(塔を吹く風の音聞こゆ)
少年 (耳を澄まし)お姉様、風が吹いているね。
女子 塔を風が吹いています。
少年 塔?
女子 水門の上にはね、高い塔があるんですよ。その塔の中にはね……いやいや……何も教えまい。(と急に思い返して黙す)
少年 (姉の顔を熱心に視て)お姉様!
女子 (無音にてヨハナーンを見る)
少年 (熱心に)塔?
女子 いいえ、何もありません。
少年 お姉様! 塔?
女子 いいえ、あの音は水門を吹く風の音です。
少年 その水門の上の塔?
(女子立ち上がり、窓より塔をすかし見る、塔に月光さす)
女子 夜になった、青ざめた光
前へ
次へ
全39ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング