いている。お前のために恋を歌った、深山鈴蘭の送り主が、青い燈火の光の裏に、恋の屍を横仆《よこた》えている。お前はそれが悲しいか。(間)黄昏の神の素足のような、美しく白い公子の肌が、麻の衣にかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》された樫の柩の底にある。彫刻の美も光がなければ、女の眼には映るまい。その彫刻の美が柩の中の、堅い床の上にある。(間)女よお前は俺に問うか、「語れ公子を殺せし毒と」(銀の竪琴を見て)毒は白銀の弦より流れ、あふれて彼を死《ころ》したのだ。女よお前は俺に問うか、「語れ毒を盛りしその悪魔を」――悪魔はお前の前に立ち、銀の竪琴を弾いている。(自分を見廻し)われながらこの悪魔! われながら華美のこの姿! 幾百千人の若い女を、罪と不貞に導いたか! 淫《みだら》を語るこの唇で、情《なさけ》深げの歌を歌い、乙女心を誘ったか。(間)純潔ならぬ恋の主は、千度《ちたび》乙女の恋を試み、千度乙女に成功した、俺は云う! 乙女は弱く果敢《はかな》いものの世にまたとなき宜《よ》き標本《しるし》と! (女子を見て)弱き乙女のお前の心も、これで三度試みた。一度は紅き薔薇の花、二度は月夜の罌粟畑、三度は今や桂の冠! (間)紅き薔薇ではもの[#「もの」に傍点]を思わせ、憂いと恋を心に蒔《ま》いた。(間)されども罌粟畑のバイオリン! 罌粟畑のバイオリン!(と罌粟畑をすかし)心臓の血の紅《くれない》が、はてなき罪の香を帯びて、誘惑らしく咲く花畑。その罌粟畑。――そこへ二人が立ち出でた時、お前は象牙細工の手を差し出し、胸や乳房に恋を思わせ、(小声にて歌う)「抱く男のやわ肌を、燃ゆる瞳にさがさばや」……そのやわ肌をさがさんと、銀の音色を追って行った。(突然)その罌粟畑! 高殿よりして公子が弾いた、あの純潔の恋の楽、それがお前を醒《さま》したね! (突然)俺の計画《もくろみ》は崩された! (憤然と)暗と血薔薇の一曲が、死に行く人魚の恋歌に、歌い消され弾き消され、凶《よこしま》だったわが弦が、お前を誘う音を出すには、その夜に限って弱かった。(女を見)女よ! 女よ! けれどもお前はもう俺の者だ! 今はもう俺の者だ! (窓口に行き音楽堂を眺め)罪と不貞の結晶堂、弱き女の恋の墓、不幸の記憶の生きたる所。(声鋭く)領主の妻の屍の恋が、罪の結晶堂に埋めてある、見ろ! その不吉の堂内から、公子の屍が運ばれる。――ああ歓楽の楽堂が、一瞬にして悲哀に埋もれ、あたたかなりし人の息が、冷えたる血汐に変えられて、高殿の青き灯《ひ》と、広間に嘆く鉦の音が恋の末路を見せている。(突然)領主の妻と領主の子と、同じ運命の呪詛の的《まと》! (女子を見て)そして女子よ、お前は俺の所有《もの》となった、(命令的に)女子よ俺の胸に来い! (女子、Fなる魔法使いの胸にすがる。弔いの鉦の音益々悲哀を含んで鳴り渡り、それと共に、小供等の歌う挽歌聞こゆ)
女子 (うっとりとなりて鉦の音に耳を澄ます)あの鉦の音は?
Fなる魔法使い 恋を葬《ほうむ》る鉦の音。
女子 あの小供等の歌う歌は?
Fなる魔法使い 悲しみ嘆く葬《とむらい》の歌!
女子 死んだは誰れなの?
Fなる魔法使い か弱き母に似た不幸の公子!
女子 それは誰れなの?
Fなる魔法使い 深山鈴蘭をお前にくれた一人の男!
女子 (すすり泣き)ああ若様か。(されどFなる魔法使いの胸より離れず)
Fなる魔法使い (女と共に窓に行き)空には月が涙ぐみて彳《たたず》み、海には屍の船が浮き、風は光の陰に隠れ、人は幽《かすか》に挽歌を歌い。聞け! 小船を漕ぐなる艫《ろ》の音が、沈み沈んで海底の、人魚の洞へくぐり行く。海底には人魚の母が、桜貝と藻の花を、据え物として待っている。公子の来るのを待っている。(突然)俺は云う! 公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが若様を殺したの?
Fなる魔法使い (明瞭に)公子は俺が殺したのだ!
女子 誰れが殺したの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使いが殺したのだ!
女子 その魔法使いは何処にいて?
Fなる魔法使い お前の体を抱いている。
女子 ええ。ええ。(とFなる魔法使いより離れて、Fなる魔法使いを睨《にら》む)悪魔! 悪魔!
Fなる魔法使い (冷然と)女!
女子 悪魔! 悪魔! 若様を殺したお前は悪魔!
Fなる魔法使い (銀の竪琴を見せ)女よ! これを見ろ!
女子 銀の竪琴!
Fなる魔法使い (紫の袍を示し)女よこれを見ろ!
女子 紫の袍!
Fなる魔法使い (桂の冠を指し示し)紫の袍を着て、銀の竪琴を持ち、桂の冠をかむった俺は、お前を奪う唯一人の男だ!
女子 (声を震わせ、しかもなつかしげに)Fなる魔法使い!
Fなる魔法使い (笑い)北の浜辺で紅の薔薇の花を、お前にくれたFなる魔法使いは俺だ! さあまた北の浜辺へ行こう、罪の深い歓楽
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