を繙《ひもと》き、英米学者の代議政体論、議院政治論、憲法論、立法論などは彼らよりも一層精しく講究せり。吾輩はこの論派の代表者を挙ぐるあたわざれども、二、三年の後、改進党なるものを組織したる人はたいていこの派に属せしがごとし、彼らは戦争よりも貿易の重んずべきを論じ、いずれの国も欧米文明の風潮に抗すべからざるを論じ、国政は君民共治の至当なるを論じ、立法・司法・行政の三権を鼎立せしむべきを論じ、要するにもっぱら英国の政体をただちに日本に模造するの説を抱きたるがごとし。この翻訳的論派はかの過激的民権論よりも一層穏当なるがごとく見え、隠然多くの賛成者を朝野の間に博したり、何となればその全体は尊王主義と民権主義との抱合たる姿を有すればなり。当時廟堂在位の諸公はいかなる意見を政論上に抱きたるや。思うにまた民権説を蔑視し厭忌し危懼したるにはあらざるべし。しかれども過激なる民権論をもって国を禍するものと見做したるや明白なり、吾輩は当時の『東京日日新聞』主筆たる福地氏をもってこの代表者とす、これを第四種すなわち折衷民権論となす、同氏の草したる民権論にいわく、
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民権は人民のためにも全国のためにも最上無比の結構なる権理なれども、その権理の中には幾分か叛逆の精神を含みたるものなるにつき、もしその実践を誤れば名状しあたわざるところの争乱を醸すやあたかも阿片モルヒネに利用害用あるがごとし。
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と。しかして当時民権を唱うる人々の内心を分析してその私党心あるを説き、またこの人々の身分を評論して無産の士族なることを説き、ついに民権論の国乱を醸すに至るべきを揚言せり。しかれどもこの第四種の論派はあえて民権の道理に反対したるにあらず。ただ日本の国状を顧慮して民権を漸次に拡充すべきところを論じ、地方官会議の設置をもって民権拡充の一端となし、しきりに漸進の可なるを主張せり。吾輩はこの論者をもって当時政府の弁護者となすに躊躇せざるなり。しかれども当時の政府自身が民権の反対者にあらずして、むしろその味方たる実なきにあらず、ただその急漸の差あるに過ぎざるのみ。これが代表たる折衷民権論派はその前より他の論派とともに民権論を唱えたることはすこぶる多く、したがって世人をして民権なるものの本性を知らしめたることはかつて他の論派に譲らざりき。これ吾輩のここに民権論派の一種として算え来たれるゆえんなりとす。
氷にあらずしてなお冷やかなるものあり、火にあらずしてなお熱なるものあり、今火ならざるをもって熱にあらず、氷にあらざるをもって冷にあらずと言う、これ粗浅の見たるを免れず、吾輩は最初においてこの事を一言せしはこれがためなり。血をもって民権を買うべしとの論派と、民権の中に幾分か叛逆の精神ありとの論派と、その間の距離|幾許《いくばく》ぞや。しかれども立憲政体を立てて民権を拡充すとの点においてはいずれも同一なり。民権を唱道するにおいては同一なれども、かの普通選挙一局議院を主張したる論派と、英国風の制限選挙二局議院を主張したる論派とははなはだ径庭あり。吾輩が当時の論派を一括して民権論派となし、むしろこの時代を称して民権論の時代となすはこれがためのみ、しかしてこの時代は西南戦争によりてとみに一変したるを見る。
第三期の政論
第一 国会期成同盟
兵馬の争いは言論の争いを停止するの力あり、鹿児島私学校党の一揆は、ただに当時の政府を驚駭せしめたるのみならず、世の言論をもって政府に反対する諸人をも驚かし、一時文墨の業を中止して投筆の志を興さしめたり。吾輩はこの期節をもって近時政論史の一大段落となす。しかして第三期の政論を紀するに先だち、ここに当時以後の政論に関し一言し置くべきことあり。何ぞや他にあらず、政事に係る新思想はこの変乱によりてほとんど全国に延蔓せしことこれなり。当時に至るまで政論を唱えたるものは主として東京にあり、かつ民間にありて政論に従事せしものはおもに旧幕臣または維新以来江戸に居留せし人々に係る、地方土着の士人に至りてはなお脾肉《ひにく》の疲《や》せたるを慨嘆し、父祖伝来の戎器《じゅうき》を貯蔵して時機を俟《ま》ちたる、これ当時一般の状態にあらずや。試みに全国を大別してこれを観察せんに、新しき政事思想を抱きて国事を吟味するものは文明の中心たる東京をもって本となし、これに次ぎたるは第二の都府とも称すべき大阪を然りとす。大阪は商業の地なり、何故に政事思想はこの地に発達せしか、いわく土着の人民然るにあらず、土佐人の出張所あるをもってなり。
さきに民選議院論を唱えたる政事家の一人板垣退助氏は時の政府に不平を抱きてその郷里土佐にあり、薩摩の西郷とともに民間の勢力をもちたるがごとし。当地その同論者たる江藤氏は佐賀の乱に殪《たお》れ、後藤氏は政界を去りて実業に当たり、副島氏は東京にありて高談雅話に閑日月を送る。ここにおいて政府の反対者たる政事家はただ九州と四国とに蟠踞《ばんきょ》していわゆる西南の天には殺気の横たわるを見るに至れり。吾輩は第二期の政論派すなわち民権論派を区別して四種となせり、その中に悒欝《ゆううつ》的論派とも言うべき慷慨民権派は実に薩摩なる西郷氏を欽慕するものに係る、しかして快活的論派とも言うべきはすなわち土佐の板垣氏に連絡ありてその根拠を大阪の立志社連に有せり。十年の乱は実に政界を一変せり。かの一派の民権論者は西郷の敗亡とともにほとんどその跡を絶ち、あるいは官途に入り、あるいは実業に従い、またあるいは零落して社会の下層に沈没し去れり。快活的の一派はこれに反してますますその勢力を博し、当時西郷の敗亡を袖手《しゅうしゅ》傍観したる板垣氏はひとり民権派の首領たる名誉を擅《ほしいまま》にして、政界の将来に大望を有するに至る、これを十年十一年の交における政論の一局状となす。
兵馬の力をもって政権を取らんと欲するものはこの時をもってほとんど屏息《へいそく》せり。これと同時に政論はほとんど全国に延蔓するに至る。関西地方は土佐の立志社、大阪の愛国社、すなわちかの快活的論派をもって誘導せられ、関東地方は多くかの翻訳的論派に動かされたり。しかしてかの折衷的論派は関の東西を問わずおよそ老実の思想を有する者みなこれを標準とせしものに似たり。十年以後一、二年間政論の全局は以上に述べたるがごとし。この間において政論は幾分か高尚の点に向かって進み、自由民権の説はかの王権および政府権威の理とともに世人のようやく講究するところとなれり。これ実に第三期の政論の萌芽と言うべし。かつ当時の一政変は政論をしてますます改革的方針に向かわしめたるものあり、十一年の中ごろ、時の政府に強大の権力を占め内閣の機軸たるところの一政事家は賊の兇手に罹りて生命を殞《おと》したり。岩倉右府の力量をもってすといえども抑制すべからざりし二、三藩閥の関係はこれがために幾分か調和を失い、政府部内の権力はふたたび一致を欠き、ついに種々の政弊を世人に認めしむるに至る。
西南の役に当たり兵馬|倥偬《こうそう》の際に、矯激の建白書を捧げ、平和の手段をもって暗に薩州の叛軍に応じたるかの土州民権論者は、大久保参議の薨去《こうきょ》を見てふたたびその気焔を吐き、処々の有志者を促して国会開設の請願をなさしめたり、ついに国会期成同盟会なるものは成立せり。この同盟会なるものはすなわち第二期政論より第三期に遷《うつ》るの連鎖にして、なお第一期の後における民選議院建白とほとんど同一の効力ありき。次に第三期の政論に前駆をなしたるがごときものは大隈参議の退職なり。この政事家はさきに征韓論に不同意なりし人なり、多分かの民選議院建白にも不同意なりし人なり、大久保参議の時代には現政府の順良なる同意者なりき、しかして当時に至りにわかに政府に反対して民間の国会論者に同意を表したり。この政事家は国権論派にあらずして国富論派なりき、政事上に向かっては板垣氏その他の人々に比してむしろ保守主義の人なるや疑いなし。しかして十三年の当時にあり速やかに国会を開設すべきことを発論し、他の内閣員に合わずして職を退きたり。この一政変は第三期の政論にすこぶる大なる誘起力を与え、期成同盟会に入らざりしかの翻訳的論派は一変して一の強大なる政論派を成すに至れり。しかして隠然保守主義を取りたる折衷的論派はまったく政府の弁護者となりて他の二政論派に反対をなしたり、これを第三期政論の啓端となす。
第二 新自由主義
国会期成同盟会なるものは往時の民選議院建白を宗として起こりしもののごとし。しかれどもその六、七年間において政論状態は一変し、民権論派なるもの四種に分かれて并立したることは実に第二期の政論派なりき。この四種のうち第一種の慷慨派は十年の役とともにほとんどその形を失いたるも、残余の分子は他の三種に合して当時ふたたび国会請願の連中に入れり。期成同盟会は種々の分子をもって成立したるものなれば、あたかも昨年春の大同団結に類するものあり。すなわち各種の心事をもって同一の事業に向かうゆえに同盟会なるものは一の論派としてここに加うるの価格はあらず、吾輩はただ二期の連鎖としてこれを挙げんのみ。第三期の政論派は当時まさにその萌芽を吐きたり。しかしてここに新自由主義というべき一派はにわかにその間に発生し、従来の快活的民権派に新しき武器を供給したるがごとし。吾輩は仮りにこれを名づけて新自由論派と言わん。今のベルリン駐※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]《ちゅうさつ》公使なる西園寺侯は新たに仏国より帰りて、二、三の同志を糾合し、たとえ暫時なりとも『東洋自由新聞』を発行せしこと、および今の兆民居士、中江篤介氏が帷を下して徒を集め、故田中耕造氏らとともに仏国の自由主義を講述しもって『政理叢談』を刊行せしことは、これ実に自由論派の嚆矢《こうし》というべきか。
新自由論派は第二期の政論派よりもその民権を説くにおいては一層深遠なりき。何となれば彼らは、事実の上に論拠を置くことをなさず、西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄したればなり。中江氏らのおもに崇奉せしはルーソーの民約論なるがごとく、『政理叢談』はほとんどルーソー主義と革命主義とをもってその骨髄となしたるがごとし。その説の大要に以為《おもえ》らく、「自由平等は人間社会の大原則なり、世に階級あるの理なく、人爵あるの理なく、礼法慣習を守るべきの理なく、世襲権利あるの理なく、したがって世襲君主あるの理なし、俗は質朴簡易を貴ぶ、政は君主共和を尚ぶ」と。要するに新自由論派はかのルーソーとともに古代のローマ共和政を慕うこと、なお漢儒が唐虞三代の道を慕うがごとくなりき。その説は深遠にしてかつ快活なるがごとく、一時は壮年血気の士をして『政理叢談』を尊信せしむるに至れり。この論派の特色は理論を主として実施を次にし、いわゆる論派《スクール》たるの本領を具えたることこれなり。その一時世に尊信せられたるは実にこの点にあり、しかしてその広く世に採用せられざりしもまたこの点に在り。ついにこの論派はかの快活民権論派に合してこれに理論の供給をなすに至れり。
第三 自由改進帝政の三派
すでにして快活民権派の泰斗《たいと》、今の板垣伯は自由党なるものを組織し、次に翻訳民権派は今の大隈伯を戴きて改進党を組織せり、しかして二派ともに時の政府に向かいてその論鋒を揃えたり。ここにおいてかの折衷民権派たりし福地氏は明らかに政府の弁護者となり、他の守旧論派と連合してもって帝政党を作り、自由・改進二派と正反対の位地に立ちて論戦を開くに至れり。この三派は実にわが国政党の嚆矢なりといえども、吾輩はやはり論派としてこれを吟味せん。第三期の政論派は当時政界の現状に対し明らかに保守と進歩との二極を代表したり。その進歩派と称すべきはすなわち自由論派にして保守派と見做すべきはかの帝政論派なり、しかしてこの両極の間に立ちたるものは改進論派と名づくべき温和的進歩党なりき。吾輩はこの三派各個の論旨を吟味するの前
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