実にこの学派の力を仮りたるや疑うべからず、吾輩はこれを称して法学論派となすべし。
当時の経済論派および法学論派多くは英国の学風を祖述するものに過ぎず、ゆえに経済派の説は主としてマンチェスター派より来たりて非干渉および自由貿易に傾き、ただ法学派は官立学校において英学派の教授を受けたるにかかわらず、幾分か仏国またはドイツの学風を帯びかつその先輩たる国権論派の主義に感染するところあるをもって、政論上においては濫《みだ》りに英国の風を学ばざるの傾きあり。二派の新論派はかくのごとき差違ありき。されば経済論派は一方において自由論派の助勢となり、他方においては改進論派の有力なる味方となり、しかして法学論派は別に帝政論を授けて他の自由・改進の二論派に反対したり。しかれども吾輩はこの新論派が著明なる形体を備えたることを見ず、ただ当時の実状を回想して暗々裏にその跡を認めたるに過ぎざるなり。いかなる人々がこの二学派の代表たりしか、経済論派に付いては吾輩今の『東京経済雑誌』をもってその根拠となし、法学論派に付いてはかの帝政論派とともにただ『東京日日新聞』をその目標とするに止まる。今その政事上に係る論旨の大要
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