国富論派の代表なる福沢諭吉氏の創立にして、これに次ぎ泰西の経済説を教えたるは古洋学者の巨擘たる尺振八《せきしんぱち》氏の家塾なりという。この二塾より出でたる青年者は実に日本における経済学の拡張者たり。第一期にありておもに経済財政の学を講じたる学者は今の元老院議官神田孝平氏なりといえども、その後政府に事《つか》えて実地の政務に当たり、学説を弘むるのことはまったく福沢、尺の両氏に譲りたるもののごとし。されば第三期の終りにおいて改進論派にしたがって経済論派の出でたるはこの二人の老学に誘起せられ、すなわち遠く国富論派の正系を継ぎたるものと言うべし。かつ第一期の国権論派中にいちじるしき学者の一人、今の司法次官箕作麟祥氏は当時にありて一の私塾を開き、かの慶応義塾などと相対立して法学の教授をなしたり。すでにして国権論派に傾きたる当時の政府は高等教育の制度を設け、種々の変革を経て東京大学と名づけ国権論派の巨擘たる今の加藤博士をその総理となせり。この官立学校より出でたるものはおもに法学者にして、自然にも第一期の国権論派の正統を承けたるに似たり。ここにおいて政論社会はようやく一変し、かの帝政論派のごときは
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