なり。帝政論派の主義によれば帝室内閣こそ至当の制なるがごとし、彼その説の大要にいわく、「政党内閣は党派政治となり、一変して偏頗《へんぱ》の政治となり、ついに言うべからざるの弊害を生ぜん、帝室内閣は党派に偏せずいわゆる無偏無党、王道蕩々の美政を維持するに足らん云々」と。しかして彼また以為らく、「世の政党内閣を主張する者は輿論を代表する党派をもって政弊を済《すく》うの謂にあらず、むしろ党派の勢いを仮りて政権を奪わんと欲するのみ」と、はたしてこの言のごとくならば政党内閣論はすなわち朋党争権論なり、帝政派のこれを攻撃するは至当なり、しかれどもこれがために藩閥内閣を弁護して戦功者握権を是認するに至りてはすなわち寸を直くするために尺を曲ぐるの愚説と言うべし、帝政論派のただ時の政府に容れられてかえって世の攻撃するところとなりしはまったくこの点にありき。
然りといえども帝政論派もまた政界に功なしというべからざるなり、当時世の風潮は民権自由の説に傾きいわゆる末流の徒は公然言論をもって王室の尊厳を犯すあるに至る、そのいまだかかる粗暴に至らざる者といえども世の風潮を憚《はばか》りて明らかに日本帝国の国体を言うことをあえてせず。当時民間の政論家をもって自任する者は日本の旧慣を弁護することを憚り、わずかに英国の例を藉《か》りてもって西洋風の勤王論を口にするあるのみ。実に当時の政論家は国体論または忠君論を禁物となしたるありさまなり。この時に当たり断然起ちて万世不易の国体を説き王権論を説き欽定憲法論を説きたるものはひとり帝政論派なり。吾輩はその説の往々偏癖に流るるものなるを知るも、世の潮流に逆らいて民権熱に清涼剤を投じたるの功を没すべからずと信ずるなり。帝政論派はもとより一の論派たる価値なきにあらず、然れどもその藩閥内閣を弁護するによりて勢力は他の二論派に及ばざりき、ついに二派に先だちて政論界より退きたり。これを第三期の末における政論の状想となす。第三期より第四期に移るの際に当たり、二、三の新論派はようやく萌芽を吐きたり、経済論派、法学論派のごときものこれなり。請う次回においてその大要を吟味せん。
第七 経済論派および法学論派
泰西学問のようやく盛んならんとするや、東京に二、三の強大なる私塾ありき。そのもっともいちじるしきものは今なお存するところの慶応義塾これなり。この塾は昔時
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