国富論派の代表なる福沢諭吉氏の創立にして、これに次ぎ泰西の経済説を教えたるは古洋学者の巨擘たる尺振八《せきしんぱち》氏の家塾なりという。この二塾より出でたる青年者は実に日本における経済学の拡張者たり。第一期にありておもに経済財政の学を講じたる学者は今の元老院議官神田孝平氏なりといえども、その後政府に事《つか》えて実地の政務に当たり、学説を弘むるのことはまったく福沢、尺の両氏に譲りたるもののごとし。されば第三期の終りにおいて改進論派にしたがって経済論派の出でたるはこの二人の老学に誘起せられ、すなわち遠く国富論派の正系を継ぎたるものと言うべし。かつ第一期の国権論派中にいちじるしき学者の一人、今の司法次官箕作麟祥氏は当時にありて一の私塾を開き、かの慶応義塾などと相対立して法学の教授をなしたり。すでにして国権論派に傾きたる当時の政府は高等教育の制度を設け、種々の変革を経て東京大学と名づけ国権論派の巨擘たる今の加藤博士をその総理となせり。この官立学校より出でたるものはおもに法学者にして、自然にも第一期の国権論派の正統を承けたるに似たり。ここにおいて政論社会はようやく一変し、かの帝政論派のごときは実にこの学派の力を仮りたるや疑うべからず、吾輩はこれを称して法学論派となすべし。
 当時の経済論派および法学論派多くは英国の学風を祖述するものに過ぎず、ゆえに経済派の説は主としてマンチェスター派より来たりて非干渉および自由貿易に傾き、ただ法学派は官立学校において英学派の教授を受けたるにかかわらず、幾分か仏国またはドイツの学風を帯びかつその先輩たる国権論派の主義に感染するところあるをもって、政論上においては濫《みだ》りに英国の風を学ばざるの傾きあり。二派の新論派はかくのごとき差違ありき。されば経済論派は一方において自由論派の助勢となり、他方においては改進論派の有力なる味方となり、しかして法学論派は別に帝政論を授けて他の自由・改進の二論派に反対したり。しかれども吾輩はこの新論派が著明なる形体を備えたることを見ず、ただ当時の実状を回想して暗々裏にその跡を認めたるに過ぎざるなり。いかなる人々がこの二学派の代表たりしか、経済論派に付いては吾輩今の『東京経済雑誌』をもってその根拠となし、法学論派に付いてはかの帝政論派とともにただ『東京日日新聞』をその目標とするに止まる。今その政事上に係る論旨の大要
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