尹主事
金史良

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)擔具《チゲ》
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 町の北、丘を越えたところにじめじめした荒蕪地がある。その眞中に崩れかかった一坪小屋がしょんぼり坐っていた。潜戸の傍にかけた大きな板には墨字で尹主事と書かれている。
 尹主事は朝起きると先ず自分の版圖を檢分した。彼はこの荒蕪地一帶を自分の所領と定めている。汗をはたはた流しながら棒切れで境線を引き廻る。
 そこで一先ず小屋に歸り、地下足袋をはきよれよれのゲートルを卷き付ける。擔具《チゲ》を背負うと、再び出て來て、例の名札を十分程もじっと見つめ、それから踵をかえしてすたこらとさも急がしげに町へ出掛けた。――だが未だかつて人は彼の働いているのを見たことがない。
「今日はどうしたね」と夕方つい出會いがしら問いかけでもしたら、彼はにたにたしながら胡麻鹽の蓬頭をくさくさ掻き立てる。「なあ、全く不景氣でしてな」いつかも尹主事は私の家にあたふたとやって來て書室の前に立ち現れた。そして何かを切り出しにくそうにもぞもぞして手を揉んでいた。どうしたのかと訊いてみると彼は莞爾として微笑んでから、日本に渡ったら
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