をふり廻しつつ熊みたいに薄暗がりの中を驅け上ってきたのである。
「學生さん!」彼は遠くから私を見てとったとみえ喘ぎ喘ぎ叫んだ。私はそれが尹主事の聲であるのを知った。彼は私の鼻先まで近付いて息をはあはあ吐いた。
「やっぱり學生さんだべ」
 私は彼の顴骨が異樣に突き出し兩眼が深く落ち窪んで、この一月の間にみるめもなく衰えているのを見た。
 主事は息を嚥んで板をさし向けながら彼の版圖を示した。名札の板を擔いで歩いていたのだ。もうあたりは薄闇の中に陷落し始め、野原で燃えていた梵火もすっかり消えかかっている。
「工場が立ちますだよ」彼は私の袖を引いた。「そらこっちきなさるだ。そらこっち、あすこに旗が踊ってますだね。でっかい羽二重《ハビタン》の工場ですぞ――ひっひひひそうでがしょう! ひっひひひ」
 私は彼を默ったまましげしげと横から見つめていた。主事は矢張り地下足袋をはきゲートルを卷き付けている。併しつっ立った彼の姿はもう燒き盡された火事場の黒い柱のようにしか思えなかった。彼は私の眼に氣が付くと獨りでてれたように淋しく笑った。
 その時工事場で働いていた職人達ががやがや騷ぎ立てながらやって來た。
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