者の芸術のためには、理解ある内地の文化人の支持と後援のもとに、どしどしいい翻訳機関でも拵《こしら》えて紹介するように努めるがいい。内地語か然らずんば筆を折るべしという一派の言説の如きは余りにも言語道断である」そこで急に卓を叩いて立ち上った。
「それでだ! 玄竜、君はこの問題をどう考えるんだ?」
 玄竜を睨み附ける目からは火が出るようだった。彼は瞬間すくみ上ったことである。その実玄竜は体《てい》よく愛国主義の美名のもとに隠れて、朝鮮語での述作はおろか言語そのものの存在さえも政治的な無言の反逆だと讒誣《ざんぶ》をして廻る者の一人なのだ。それでなくてもこういう純粋な文化的な述作行動も、朝鮮という特殊な事情から、その本来的な芸術精神さえがややもすれば政治的な色彩を帯びているものとして、当局の誤解を招き易いと云えば云える。殊に事変以後その危惧は一層甚しかるべきである。玄竜はそれにつけ込んで愛国主義をふりかざし人々を売りつけながらのさばり廻っているのだった。それでどれ程多くの無実な人々が不安と焦躁、苦悶の深淵に突き落されたことだろうか。実際この会合は玄竜一派の言説に対する批判会だったのである。玄竜はその時体を反らしていかにも莫迦《ばか》にしたように、
「朝鮮語か」
 と一言あしらってせせらわらった。ここにおいてついに李明植は心燃え上り皿を取り上げてぶち投げた。皆はどっと騒ぎ出した。だが彼は頭を打たれて仰向けに倒れてからも不貞腐《ふてくさ》れたように尚けらけらと笑い続け、李明植は傷害のかどで検挙されたことは既に御承知である。後から彼は会場を出て一人で新町の廓の中へ浮れ込んで行って、どこか安い銘酒屋でウイスキーを何杯もひっかけるなり、その足で娼家の門をくぐったものである。彼はそれを思い出すと何となく気恥しくもあり又おかしくもなってくすりと笑ってしまった。それからまぎらわせるように慌てて立ち上りかけた。
「何時頃でしょうか」
「まあいいじゃありませんの、本当にせっかちですこと」と云いながら、文素玉はちらっと腕時計を覗いた。「まだ六時前ですのよ。そらおコーヒーを早く持って来てよ」
「じゃついでにトーストも貰いましょうかね」と云って、釣り込まれるように再び玄竜は腰を下ろした。
「……それでです。何しろ社長の大村君がじきじきやって来られたんじゃね、とうとう僕も参って書いてやったんですよ。すると奴さんすっかり悦びやがって僕を引っぱり出してね、ぐでんぐでんに酔っぱらわせてあのノイエ・シュタットに連れ込んだんですよ。ところが、それがね、メロンのように頬の黄色い女でしたよ……」
 それからこのメロンのようにという言葉がとても肉感的に思われて自分ながらすっかり気に入ったらしく、もう一度繰り返して強調した。
「メロンのようにね」
 さすがの女流詩人も彼が臆面もなく行って来たというその意味がやっと分ったとみえわれ知らず顔を火照《ほて》らしたが、それでも自分の気づまりな様子をみせては安っぽく見られるに違いないと思い返して、いかにもそれはもうとっくによく知っているけれどといった調子でこう応じたのだ。
「よかったんですわね、……素敵ね。それでも玄さんをお寺へ入れるというお方が、よくまあそんな所へ連れて行きましたのね」
「だからですよ」と小説家は顔の筋肉をひきつらせて慌てたように叫んだ。「それだから官僚たちの気はどうも分らんというのですよ。一種の気紛れなんですね。要するに大村君は僕という人間がまだ分っていないんです。つまり尋常でない芸術家が分らんのです」
「そうね」女流詩人は愁然として肯いてみせ、それから不意におほほほと笑い出した。
「いや笑うことではないのです。ランボウやボードレールが一般の俗人達にどんなに非難されたかを少しでも憶い出してごらんなさい」玄竜はいよいよ雄弁になって手を振り上げた。「朝鮮の芸術家、それは何という不幸な存在でしよう。自然は荒廃し民衆は無知であり、インテリは又芸術の高貴さを知らない。僕はここでゴーゴリがペテルブルグの画家を慨《なげ》いたことを思い出します。凡てが鈍重で悦びもなく又誰一人にも朝鮮の芸術家は大事にされないのです。捨てられた芥《あくた》の中でもがき合っているだけなんだ。僕もつまり芥の中に掃き出された一人の犠牲者なんですよ。成程僕は誰よりも大村君とは親しいしどんなことでも相談し合って来た。だが、今になっては彼はこの僕に向ってお寺へ行って坐禅をくめと云うのです。彼のそう云う気持は分るけれど、それは芸術家には自殺を意味しますよ。坊主になるなんて。だがまあ宜しいと僕は思う所あって云ったのです。ボードレールも詩の言葉で、おー静謐《せいひつ》よ静謐よと憬れました」
 けれどそう結びつつ口元に笑いを浮べた彼の顔は、妙に痙攣を起したようにふるえた。
「一種の保護観察なんですのね、思想犯じゃないけど……」
「そうなんですよ」と彼は泣面をかきながらおろおろ声をしぼった。「僕は明後日までには坊主になってお寺へ行かねばならんのです」そこで彼はぶるっとふるえ上り膝を乗り出した。「ところがですね、実に素晴しいことには、東京の作家で僕の親友でもある田中君が京城へ来ているんです。是非会いたいということで先程朝鮮ホテルへ行ったけれど、とても遅かったので奴さんはしびれを切らして、大村君あたりと一緒に出掛けたらしいのです、あまり気の毒なんで僕はこれから捜しに行こうとするところです。何なら紹介して上げましょうか、朝鮮のジョルジュ・サンドとして又僕のリーベとして……」
「…………」詩人は目をつぶって嫣然《えんぜん》と笑った。彼女はいよいよ若い大学生と待ち合わせていることをすっかり忘れてしまった。「え有難う、紹介して戴きますわ」
「そうしたら」玄竜はじいっと彼女の笑顔を見つめていたが瞬間、そうだ今晩は久し振りにこの女を連れて帰るんだとひとり肚《はら》で定め込み、
「これを聞くと田中君の妹が妬きましょうぜ、へへへ」
「あら、そうでしたの、東京の恋人ってその方のお妹さん? おほほこれは面白いわね」
「そうなんですよ、そうなんですよ」と彼は我意を得たりとばかりいかにも愉快そうに叫んだ。「僕が東京を引き上げる時彼女が追いかけて来ると云って大変だったのです。兎に角田中君も今じゃ大いに芽が出て、もう中堅の作家ですよ。どうでしょう、彼を囲んで僕達が一度集ったら、その時も是非来て下さいね」
「え、それはむろん行きますわ」
「ところで、実はですね、田中君は大村君とは大学の同窓でとても親しい仲なんですよ」と後にぐっと身を反らして急に真剣な表情を作った。が、それには惨めとまでいえるようなほのかな明るい影が浮び上った。「そこで僕は田中君に大村君を口説いて貰おうという訳なんです。つまり芸術家を理解させるんですよ。そうです、これは確かにパリ娘のアンナに会ったこと以上に重大なことです。そしたらきっと僕はお寺へ行かないで済むと思うのです」
「そうですわね、それがいいですわ、それがいいですわ」女流詩人は肩をゆすぶりつつ息もせわしく心からの悦びを現わした。
「ほんとうにそうなればいいですわね」
 事実小説家玄竜にしてもそう悪い人間ではなく、性根は至って弱い臆病者で、文学の才能にもいささかは恵まれていた。ただ長い間のどうすることも出来ない窮乏や孤独や絶望が、彼の頭を攪乱《かくらん》してしまった。それに今は朝鮮という特殊な社会が彼を益々混迷にぶち込んだのである。一種の性格破綻から父や兄には勘当され、学業は成らず生活費のあてとてなかった。東京での十五年間の生活というものは、それこそ正しく哀れな野良犬同様だった。殊に悪いことには自分が朝鮮人であることをどう隠そうにも、彼の骨組や面貌がまぎれもなく朝鮮人に出来ているので、下宿へ宿ろうとしても第一が顔、それにぼろぼろのズボンと来ているから、てもなく断られるのである。で、彼はふと神の啓示でも受けたように苦肉の一策として、急に自分は朝鮮貴族の息子でしかも文学的な天才であるばかりか朝鮮文壇では第一流の作家だとふれ廻ることにした。彼はそれで、朝鮮人であるがためにより余計に受けねばならない蔑視や気拙いことをも多少は緩和させ、いくらか暮しの上でも融通をきかせようとする心算である。ところが奇蹟的なことにはその方法が全く功を奏して次々と二三人の女に飼われることが出来た。こうしてとやかく一二年する中にすっかり彼は自分が本当の朝鮮貴族であり又文学の天才であると錯覚を起してしまった。だが文学の道だけはどうにもままならずで悶々としていたが、或る年、女を斬りつけた罪で送還を余儀なくされ、ついに破れかぶれの気持で朝鮮へ引き上げたのである。それからは朝鮮語で奇を衒《てら》うような、或は淫靡《いんび》を極めたような文章を綴って低俗な雑誌へ方々売り込みに歩いた。信玄袋にはいつも原稿を入れて担いで廻り、バーやカフェーを荒しては巡査に捕えられ職を訊かれると、得意になって文士の玄竜だと云い放った。招ばれもしない会に現われては口を開けば、フランス語やドイツ語ラテン語のうろ覚えているだけの単語を出鱈目《でたらめ》に喋りちらし、人の前では自分は柔道初段以上だからと胸を張ってみせる。そしていつも東京文壇で自分が如何にも大活躍していたようにだらだら自慢話を並べ立てた。それが恰《あたか》も今の朝鮮での自分の存在を高めるとでも思っているかのように。万事がこういう調子なので、だんだん世間の人は彼を気違いとして取り合わぬようになったが、そうなればなるほど彼は願ったり叶ったりでいよいよ有頂天になって、真実の天才なればこそ俗人達には容れられぬものだと嘯《うそぶ》いた。だが、彼の素質がおいおいと露見するにつれて、とうとう卑俗なジャーナリズムでさえ彼の文章を受けつけなくなり、文化人達は相結束して彼を文化圏内から放逐することにした。こうして身動きが出来なくなったその時から、彼は酒を飲めば柔道のことはもう一切口に出さず、いつの間にか誰に向ってでも貴様こそ監獄にほうり込まれてえのかと、こけおどかしに叫ぶようになったのだ。同時に彼はどんなことでもしおおせる男として皆から怖れられ出した。こういう男にでさえ、苟《いやしく》も時局的な言葉で迫って来る限りびくびくせねばならぬとは、朝鮮の文化人のために何という悲しむべき事であろうか。それにつれて玄竜の心も益々やけに荒《すさ》び、街で一層暴行や恐喝に猥雑な行為を働き廻るようになったが、今度は巡査にとがめたてられても、けらけらと嗤い僕のことなら大村君に聞けと呶鳴り附けるのだった。
 彼がこういうふうに人の前でいつも君附けに呼ぶ大村というのは、実は朝鮮民衆の愛国思想を深めるために編輯される時局雑誌Uの責任者である。内地から渡って来たばかりの元官吏でまだ朝鮮やその文化の事情に疎《うと》い彼は、最初に近寄って来た玄竜こそ、彼の言葉の通りに朝鮮文壇を実際に担《にな》う小説家であり、又その性格破綻に近いところなどは、いよいよ彼が非凡な芸術家である所以《ゆえん》だと頑《かたく》なに信じ込んだ。こうして絶望の玄竜はわけもなく大村に取り入り重用されるようになったのだ。ところが、好事魔多しとかでそれから間もなく、玄竜は或る至って奇妙な事情からスパイの嫌疑を受け憲兵隊に挙げられたのである。丁度或る麗かな日の午後のこと、彼はいつもの本町通りで一人の年若い妖艶なフランスのアンナと称する女を見かけたのだった。彼は勇躍してボナミとかマドモアゼル、ウイメルシイとか片言を並べつつ近附いて行った。青い瞳の女も中々心得たものでたどたどしい日本語ながら、自分は漫遊に来ていて間誤《まご》ついていると云ってやんわり笑った。彼は益々いい気になって方々彼女を連れて歩きながら、道行く人々に聞えよがしに、ボンジュール、トレビアン、ボウギャルソン、ススワルとか知っているだけのフランス語を全部叫んだ。そして態々《わざわざ》古本屋へ引張ってはいり、自分のプロフイルの出ている三流雑誌を捜し出してグラビヤの頁を開き、誰であるかを知っているかと得意気に自分
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