の写真を指差した。おーと彼女は驚いたふうをする。そこで彼は悦に入っていきなり人の目を盗んでその写真をちぎり取り、無理矢理に彼女のハンドバッグへ押し込んだ。その後アンナは豆満江国境でスパイとして検挙され、彼は件《くだん》の写真が彼女の手元から出て来たために、同じく嫌疑を受けて留置された。こうして大変なことになるところを、大村が官庁の力でいろいろと釈明奔走して身柄を貰い下げてくれたので、彼は大村には一世一代の恩義を感ずるようになった訳である。でなくても朝鮮の一般の人々に野良犬同様に見放された現在の彼は、大村にまで捨てられては野垂死《のたれじに》するより致し方がなかった。が、今はもう朝鮮にも愛国熱は漸次高まって所期の目的は殆んど達せられつつあるのに、愛国主義をふりかざして社会の公安を妨げ到るところで悪事を働く玄竜を、そのまま用いることは大村の威信にも関ることと云わねばならぬ。その実又玄竜に関する限り、司直当局に対する非難攻撃が甚しく警察でもそろそろ内査を始めたのだった。それで大村は警察に渡すには忍びない気持と持前の信心深さから、お寺へ赴《おもむ》き坐禅修行をして早く謹慎の状でも見せろと命じたのである。事態がこうなってみると、玄竜はその命令に背《そむ》く訳には行かなくなったのだ。いよいよこの二日の中に出掛けねばならなかった。それ故この際東京の作家であり又大村と同窓でもある田中が来城したことに一切の望みをかけ、自分が自由に足を伸ばし得るように、いろいろと大村を彼から口説いて貰おうとする訳である。だからパリ娘のアンナに会った以上に重大であることはむろんだった。
「僕はこれから田中君を捜しに鐘路裏へ行くのです。さあ一つ出掛けましょうか」
 と、玄竜は急に元気になってトーストを一度に二片も口に突っ込みながら尻を上げた。
「あたしも行きますわ、……あ、それいいわよ」
 と云って、女流詩人は彼の手から勘定書をもぎ取って立ち上ったが、どうしたのか急に表情が強ばって石のように固くなった。間もなく彼女は少しばかりおずおずし出した。おやっと思って玄竜が振り返って見れば、入口のところに角帽を目深く被った背のひょろっとして高い大学生が蒼くひきつった顔をして突立っていた。そしてじろりと玄竜を睨んだ。その時急に悩しげなスペイン民謡のレコードは止り、人々の視線は一斉にこの三人の方へと向けられていた。文素玉はいきなりそそくさと身をかわして入口の方へ行き、ドアを開け若い大学生を引張るようにして外へ出て行った。玄竜は打ち砕かれたように茫然と立ち尽してそれを眺めた。後の方では皆がきききと笑い合う声が聞える。ところが又三四分もしない中に、彼女は慌しく彼の方へ飛び込んで来て、「あたしの従弟ですの」とせき込みつつ小さく叫んだ。「芝居へ行こうと約束していたのをすっかり忘れていたんですの」
 そしてはっと思う間に、
「明日の朝行くわ」
 と耳元に囁いて再び飛んで出て行ったのである。
「待て、待て!」
 と、後から急に狼狽したように叫びつつ彼は手を振りながら飛び出した。だがもう外は暗い夜で二人の影はどこへ行ったのやら、既に杳《よう》として消え失せていた。

          三

「くそ忌々しい、畜生! 覚えとけ」
 等と、小説家玄竜は肩をすくめたまま何度もぶつぶつ呟きつつ、朝鮮人街で一等賑やかな鐘路通りをさしていかにも浮れたような足取りで歩いて行った。あの女郎奴までこの俺を莫迦にしている、少々ふざけているぞと彼は自分に云った。何だか大事な手中の玉を奪われたような気がしてならなかった。するといつものように彼女の不調和にも長い胴の下に続くいびつに大きなお尻が目の前にちらついて見え、それに向って温かい血潮の擾乱がどくどくと流れる切ない快感を覚えるのだ。彼はひとりでに気がむせんで来てごくりと音を立てて固唾《かたず》をのんだ。その時ふとどうしたことか、彼は自分の耳元に彼女の囁き声が聞えたように思われたので、はっと驚いて振り向いてみた。けれどむろんそこに文素玉の影もあろう筈がなく、ただ道行く人が一人|胡散臭《うさんくさ》そうに立ち止って彼の姿を眺めていた。くそ忌々しいと彼は再び口に出して呟いた。
 白堊建の大きな朝鮮人経営の銀行前を通って、いつの間にか鐘路四辻の方へ近附いて来た。急に辺りは騒々しくなり、人力車は走り自動車は流れ電車はもどかしげに警笛を鳴らしている。百貨店和信と韓青ビルの高層建築を起点として、東大門の方へ向って大通りを挟み立派な建物が海峡のように連なっていた。丁度四つ角に立っている旧世紀遺物の鐘閣の前へ出ると跼《せぐくま》っていたおいぼれの乞食達は手をさし伸べ、きたならしい乞食の子供達はどこからともなく稲虫のように群がって来た。今年はめっきり乞食がふえている。彼は物々しく手を振り上げて子供達を追い散らした。韓青ビルの前あたりからは歩道にも夜店が出張っていて人々の流れで雑沓し、売子達の掛声が喧しく響き返っている。丁度その夜店並びの入口のところでは、物見高い連中に囲まれて白い頭巾をくるんだ百姓男が酔いつぶれたらしく手を振りつつ、何かを喉につまった声でしきりに喚いている。一体どうしたのだろうと首を出して覗いてみれば、男の傍には支械《チゲ》が立てられ、そこには大きな桃の花の一杯ついた枝々がのっかっていた。それで支械は花束に埋れた形で、首をうな垂れている花々はいかにもいたいけである。
「わっしあ嬶《かか》を貰った年に二人でこの桃の木を植えたんでがす。その嬶が死にやがっただ。その嬶がよ」と百姓は叫んだ。「白米の重湯が食べてえちゅうので地主さんところへ借りに行った間に死にやがっただ。さあ、わっしあ桃の枝をぶった切って担いで来たんでがすぞ、買って下せい、一枝二十銭、多くはいらねえ、二十銭でええ」
 山をなす人々は面白そうに顔を見合わせながらげらげらと笑い合った。玄竜は懐手をしたまま人垣を押して中の方へぬっと現われ出た。そこで暫くの間目尻を下げて、いかにも感慨無量といった様子でしげしげ桃の枝を打ち眺めた。何故かしら惻々《そくそく》と胸の中を伝わって来る悲しみを覚える。彼は何かに取り憑かれたようにつかつかと支械の傍へ進んで一枝を取り上げじいっと思いをこめて見上げた。今を満開に咲き誇っている薄紅色の花が二十程もつづらなりに枝をおおうている。
「さあ、旦那買って下せい。わっしあこれをたたき売って酒を飲んで斃《くたば》ってみせまさあ、え、皆どうして笑うんでがす、買って下せい。笑うでねえ、買って下せい。……へ、これは有難え、有難え」
 片方の手でばら銭を捜していた玄竜が白銅貨を二つ三つ掴み出してぽんと投げ出したのだ。百姓は狂喜して頭を地につけ拝んだ。それを尻目に玄竜は黙ったまま桃の枝を肩にかけると人々をかき分けるようにして再び人混みの中へ出て来た。その時彼は自分の恰好からか不意にそれといった脈絡もなしに十字架を負えるキリストを憶い出し、自分にもその殉教者的な悲痛な運命を感じようとした。自分こそ或る意味では朝鮮人の苦悶や悲哀を一上身に背負って立ったような気がせぬでもなかった。成程朝鮮という現実であればこそ、彼のような人間も生れ出、且つ社会の中をのさばり廻ることが許され得たからである。混沌とした朝鮮が僕のような人物を必要として生み出し、そして今になっては役目が尽きると十字架を負わせようとするのだ、彼はそういう自覚に立ち至ると益々悲しみが胸をつき上げて来て、どうっと慟哭したい位だった。けれどそういうことも束の間、歩道一杯の人々が驚いたように皆自分の異様な恰好を眺めているのに気が附くと、寧《むし》ろ今度はけろりとしていささか得意にさえなったのである。へっぽこ詩人の女郎奴、貴様がついて来たら本当にこの僕の天外な像が分っただろうに、莫迦な女郎奴と彼は心の中で文素玉を憎々しげに罵った。夜店の前は押すな押すなの込み合いである。先からの乞食の子供達は面白そうに五六名後をついて行った。その中に突然前の方で喧嘩が始まったとみえ騒ぎ出したので、彼は避けるようにして少しばかり戻って来ると、イエス書館の横から折れて薄暗い小路をはいって行った。乞食の子供達はこの時とばかりもう一度彼の傍へまつわりついて来て手を出しながら、
「旦那、恵んで頂戴」
「恵んで頂戴」
 と哀れっぽい声を絞った。彼はつい気が滅入ったようになって銅貨をばらばらと五六枚投げ与えた。子供達は奇声を上げ暗がりの中で頭をお互いぶっつけ合いながらもがき出した。玄竜はそれを振り返ってひひひと嗤いかけたが、ふっと涙がこみ上げて慌てて腕を上げてふいた。
 裏小路に出ればそこは所謂《いわゆる》鐘路裏で、カフェー、バー、立飲屋《ソンスルチビ》、おでん屋、麻雀屋、周旋屋、飲食店、旅館等が、目をぴかぴか光らせたり、口を開けたり、尻ごみしたり、地べたにひっつくように蹲《しゃが》んだりしている。ぎーぎーとレコードが騒々しく辺り一面で唸り立て、洋服や白い着物がうろつき廻っている。景気のいい商人や、総督府あたりの朝鮮人雇員、無職で金のある青年、モダンボーイ、そしてカフェー音楽家、バーマルキスト等が、夜はよくこの界隈で気焔を上げるのだった。中には大枚をばらまきに来た金山男もいる。いよいよ目的地へ来たぞと玄竜は考えた。たとえ田中が大村に案内されていないとしても、誰かに連れられてきっとこの界隈へ朝鮮色を満喫するために来ているに違いなかった。成るべくは大村君と一緒でないようにと……彼はこう念願しつつ一つ一つ飲み場へ首を突き入れて調べてみることにした。その後をやはり子供達はにやにや笑いながらついて来る。彼はたとえ自分を尊敬する人がいてどんなに引張ろうとも決して道草は食うまいと固く決心した。それ故カフェー鐘路会館の扉を開けるや誰かがよう玄さんと叫んだ時も、彼はへへへと笑ったまま踵《きびす》を返し、バー新羅の中を窓を開けて覗いたとき、おい気違い、乞食野郎! と皆から罵声を浴びせられた時も、彼はただ自分が柔道初段以上もあることを思い起すだけでへらへらと笑い去った。或るところはうっかり飛び込んで、朝鮮服に洋装とりどりの女からお花頂戴頂戴と襲われたが、それでも彼は女共のお尻一つ叩かず花を二つ三つ投げてやりながらほうほうの態で逃げ出しただけであるが、このようにその界隈を西から東へと殆んど虱潰《しらみつぶ》しに捜し廻ったけれど、どうしても田中の一行は見当らない。彼はいよいよ焦だたしい気持に追いたてられ、あてどのない憎々しさと憤りをどうすることも出来なかった。
 玄竜は再びどこといった目当てもなしに、がに股の足を重そうに引きずりつつ捜し廻った。今度はところどころへ首を突き入れて女達に質ねさえしてみた。が、かれこれ二時間あまりも歩き廻ったけれど一向に埒《らち》が明かず、激しく疲れが出、空腹を感ずるばかりだった。とうとう優美館裏あたりの大分淋しいところまでやって来た時は寸歩も足を運ぶことが出来ないまでにくたくたに疲れ、一先ずそこらのとあるきたならしい立飲屋へ潜《もぐ》り込んだのである。埃っぽい明るみの中では、みすぼらしい人々が各々二三人ずつ一団をなして相寄りかたまってがやがや騒ぎ立てつつ盃をかわしていた。玄竜は桃の枝を担いだまま皆の驚きの視線を浴びながら、中央正面の方へのっそり進み出た。前の方に長い板で酒台が据え附けられていて、その向うの方に顔の小綺麗な女がちょこなんと坐っていた。彼は台の上に出してくれる大きな盃を取って、女から薄黄色っぽい薬酒をついで貰うなり一杯ぐっと飲み干した。それは妙にすっぱい味だった。顔を上げて辺りをじろっと一度眺め廻したが誰一人とて知る者はいない。他の人達は彼と視線がかち会うとびっくりしたようにぐっと口を噤《つぐ》んでそっぽを向いた。玄竜はそのため一層不機嫌になり、もそっと動いて行って、傍の方に据えてある網張り棚の中から豚の足を取り出して来るとむしゃむしゃ噛み始めた。それは朝鮮特有の安直な酒場で、茶碗程もある盃一杯に肴までついて唯の五銭で飲めるのだった。彼はあの好きな明けすけの淫ら
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