、「一体誰と?」
「はあ」ボーイはいささかけおされて恐縮した。「そのう何でも雑誌社の方でしょうか」
「雑誌社の方?」
はたと悪い予感に襲われてから慌しく問い返す玄竜の顔には、明らかに狼狽したような焦だたしい不安な影がかすめ通った。それはきっと大村に違いない。大村だとすればこれは大変だと思ったのである。それでせき込んで質《たず》ねた。
「U誌の大村君じゃないんですか?」
「それは、分りませんよ」と今度は横合いの方から他の中年のボーイが恰《まる》で怒ったように叫んだ。実際内地(日本、以下同じ)の芸術界から誰か知名の人でも来ると、ぐうたらな文学くずれ達がいかにも朝鮮の文人を代表するような面で押し掛けて来るので、ボーイ達はうんざりするのだった。今も田中が大村やある専門学校教授とに伴われ、後には朝鮮人のそういった文学くずれを四五人ぞろぞろ随えて出て行った後である。玄竜は殊にこういう訪問の癖がひどくて毎日のようにお客を訪ねて来るので、ボーイ達でさえよほど彼を持て余している訳だった。「一々それまで覚えておれませんからね」
「へ、成程これはどうも、へへへそうでしょうな」
と、玄竜は云いつつ頭に手をやって卑屈そうに笑うのだった。けれどどうしてもそのことが気にかかってならないので、「……多分大村君じゃないでしょうね、そうですよ、きっとそうですよ」と何度も独りで強く肯いてみせた。
それから急に首を突き出し、手では奥のロビーの方を指しながら、
「一寸ソファーを借りますぜ」
と云うとくるり背を向けた。そしてロビーは人を待つのに役立つことを、自分はこんなによく知っているぞといわぬばかりの様子で、肩を揺りつつゆっくりとロビーの方へ向って進んだ。そう云えば彼の小説にはいつも、ホテルやロビーとか、ダンスホール、サロン、貴族夫人、黒ん坊運転手といったようなものがどっさり登場していた。ところで彼は何を思い出したのか、つと立ち止ったと思うと、振り返ってから叫んだのである。
「田中君が帰ったら一つ頼みますぜ。へ、僕は眠いんですよ」
二
広々としたロビーのソファーに横になって鼾《いびき》の音も高く、優に四五時間も心ゆくままに眠りをとった玄竜は、洋服の埃《ほこり》を打ち払いつつぼそぼそ起き上った。ロビーの中はもう薄暗くがらんどうである。両手を拡げてゆっくりと伸びをしながら何度もあくびをやった。すると急に彼は空腹を感ずるばかりでなく、中々田中が帰りそうもないので、一応出て行こうと思って寝呆けた顔を突き出し帳場の方を窺ってみた。ところが丁度もっけの幸いに帳場には誰もいなかったので、彼は素早く脱兎のように抜けて外気の中へ飛び出したのである。もはや午後の日差しがうっすら淋しく大道にかげり、空風《からっかぜ》があちらこちらに埃を吹き上げている。どこかで安い食事を取って、それから一先ず田中達が行っておりそうな所を方々捜し廻らねばならないと彼は考えた。けれど自分にもどういう訳かははっきり分らないが、彼は再び歩き出しつつ怪しからんと憤《いきどお》ろしげに呟いた。恐らく田中が自分に朝鮮へ来るからという知らせの葉書一枚もくれなかったことをいうのであろう。確かに彼は自分が朝鮮に帰って今は歴とした大家になっているなどと、あられもないことを何度も云ってやった筈だのに。
わが京城は黄金通りを境界線として、その以北が純然たる朝鮮人街である。長谷川町から黄金通りへ出、茶房リラの前へ通りかかった時、玄竜は一寸覗くだけにしようと首を突き入れ一|亘《わた》り紫煙の中を見渡したが、そのとたんにわれ知らずにこりと笑った。一杯人々のとぐろを巻いているさ中に、目もさめるばかり真白く着飾った女流詩人文素玉が、百合のように楚々《そそ》と坐っていたのだ。彼は急に幸福な気持になって転ぶようにその中へはいって行った。有名な玄竜が現われたので人々はお互い突つき合ったり、ぷっと吹き出したり、わざと蔑《さげす》むようにそっぽを向いたりしていた。女流詩人は丁度若い大学生の恋人を待っていたところだが、こういう注視の的《まと》の小説家が自分の方へやって来る嬉しさに、つい何もかも忘れてしまい、やや大きいめの脣を歪めて含み笑いながら彼を迎えたのだ。
「あらまあ、玄さん、珍しいですこと」
「へへえ、これは又|至極《しごく》面白いところで……」
と近附くや、玄竜は彼女の向い側の方にどっかりと坐り込んだ。皆の好奇の目は一斉にこの二人の方へ注がれた。尤《もっと》も彼等は皆とっくからもう退屈していた。だが、退屈といえば毎日のように退屈な連中ばかりである。所謂《いわゆる》茶房の彼等も亦現在の朝鮮の社会が生んだ特別な種族の一つであろう。少しばかり学問はあるが職は与えられず、何もなすことがないので髪でもクラーク・ゲーブル式に分けてみようといった手合とか、或はどこかに製作費を出すような莫迦《ばか》息子はいないものかと、首をひねり合うちょび髭を生やした映画不良やら、何かこそこそと隅っこで企《たくら》み合う金山ブローカー達、原稿用紙の束を片手に持って歩かねば芸術家でないと思い込んでいる低級な文学青年、そういった連中ばかりだが、さすがに彼等も二三時間以上も頑張っておれば、話題は尽き頭も疲れていた折なので、突然玄竜が現われ美しい女流詩人と向い合うようになったことは、確かに興味深いことに相違なかった。京城の文化社会で誰一人知らぬものはない二人が偶然そろいもそろって対坐した訳である。それに文素玉は玄竜にとっては単なる女流詩人ではないということも、彼等はよく知っていたのである。
「今日は又どうなさいまして」
彼女はわざと恥らうように口元へハンケチをあてがった。
「実は――ヘーノイエ・シュタット(新町)に行って来たんですよ」と云って、玄竜はいかにも好奇心をそそるようににやにやと笑いを浮べた。むろん女流詩人はそのドイツ語の意味を知るよしもなかったので、
「え?」
と目を丸くするや、彼はいよいよ得意げに腹の皮をよじらせつつ笑うのだった。そして又思い出したようにふふふと笑った。頽廃のかげりを宿した彼女の頬には紅潮がほんのりとさし現われ、ちぢれた前垂れの髪はゆらぐかの如く見えた。玄竜は急に痙攣でも起したように強ばって、ぐっと食い入る目附で彼女の顔を凝視した。
軽薄な女流詩人文素玉は玄竜をこの上もなく尊敬しているのだった。彼はいみじい詩の言葉、ラテン語やフランス語を知っているばかりか、彼女の好きなランボウやボードレールともただ国籍を異にしているだけに過ぎないと彼女は固く信じている。玄竜は又自分でもそう嘯《うそぶ》き廻っていた。何しろ彼女は詩人としてもランボウの詩を幾つかもじってみた位のところであるが、それを玄竜が二三流の雑誌に担ぎ上げて彼女の美貌と共にその前途を謳《うた》ったのだ。彼女がすっかり詩人になった気取りで、人の出版記念会とやらにはどういうことがあっても出席するようになったのも、それ以来のことである。彼女が目もまがうようなあでやかな姿で会場に現われると、玄竜は何時もぶるっと立ち上ってこっちへ、こっちへいらっしゃいと自分の傍へ連れて来るのだった。彼女も所詮は現代の朝鮮が生み出した不幸な女性の一人であるとも云えようか。口を開けば合言葉である封建打破という若々しい熱情から、女学校を出るなり結婚問題さえふりきって東京にまで留学に旅立った彼女。だが内地で専門学校を出ると同時に、曾つては自分が打破せねばならぬと云い且つ又闘ったつもりの封建性の復讎を、真先に彼女自身受けねばならなかった。当時は結婚しようにも早婚のため妻を持たぬ青年はどこにも見附からなかったのだ。あたら青春の血潮を如何ともすることが出来ず、こうしてだんだん男達と接触する中に乱倫の道に陥ち込んだ。だが彼女は己こそ真向から旧制度に反抗し新しい自由恋愛の道を切り拓く先駆者だと思い込み、次々と自分の方から男を作って行くのだった。玄竜も他ならぬその相手の一人である。ただ違うとすれば、それは玄竜とだけは、二人同志がお互いの狂痴に馴れ合いすっかり満足し合っていることと云わねばなるまい。
「昨夜U誌の大村君が又僕んところへ来たんですよ、いいですか、大村君がウイスキーを持って来たんですよ」と玄竜は続け出した。「今夜中に書いてくれなければどうしても帰らんといったような訳でしてね、それにはさすがに僕も弱りましたよ。丁度東京への原稿を書いていたところなんですから。一寸素晴しいもんですぜ。Dという一流雑誌に三月も前からせびられている奴なんですよ」
「期待しますわ」女流詩人はこの上もなく感動して小さな目を輝かした。
「僕はもう朝鮮語の創作にはこりました。朝鮮語なんか糞喰らえです。だってそれは滅亡の呪符ですからね」そこで昨夜の会合のことを思い浮べながら、出鱈目《でたらめ》な見得を切ってみせた。
「僕は東京文壇へ返り咲くつもりです。東京の友人達も皆それを一生懸命にすすめているんです」
けれどその実文素玉のような女は、昨夜明菓で本当に朝鮮の文学を守りたてているような真摯な文人達の間に会合があったことを知っている訳がない。玄竜だってどこかでこの文人達の集りのことをかぎつけて、殆んど会も終る頃のっそりと現われたのだ。が、そこには彼を朝鮮文化の怖ろしいだにとして憎悪|擯斥《ひんせき》している男女ばかりがずらりと並んで、面々に興奮と緊張の色をみなぎらせて朝鮮文化の一般問題だとか、朝鮮語による述作問題の是非について熱心に討論し合っていた。彼はへーと笑いつつきまり悪そうに片隅へ離れてちょこなんと腰をかけた。やはり彼等は自分達自身の手で朝鮮の文化を打ち樹てそしてその独自性を伸長させるべきで、そのことは又結局は全日本文化への寄与でもあり、又ひいては東洋文化のため世界文化のためでもある等と語っていた。玄竜は一人一人の顔をじろりじろりと眺め廻しつつ、恰《まる》で人を食ったようににたにた嗤《わら》ってばかりいたものだ。一瞬間若い血気盛りの評論家李明植の鋭い視線とかち合ったことを覚えている。彼は思わずその時ぎくりとした。何だか李はぶるぶる神経の一つ一つをふるわせているようである。突然李は興奮のあまりに、喉元をごくごくさせつつ、
「それは自明なことだ」と叫ぶのだった。「朝鮮語でなくては文学が出来ぬという訳ではない。僕は言語の芸術性のためにのみこのことを云っているのではない。何百年という長い間|固陋《ころう》な漢学の重圧のもとで文化の光を拝むことが出来なかったわれわれが、曲りなりにでもだんだんとわれ等の貴い文字文化に目覚めて来た今日ではないか。李朝五百年来の悪政の陰に埋れた文化の宝玉を発掘し、それによって過去の伝統を受け継ぐために、過去三十年間われ等はどれ程血みどろな努力を払ってこれ位の朝鮮文学でも打ち樹てたのであろうか。この文学の光、文化の芽をどういう理由で僕達の手で又葬るべきだと云うのか。だが僕はこれのために又|徒《いたず》らに感傷的になって云うのでもない。実に重大な問題は朝鮮人の八割が文盲であり、しかも字を解する者の九〇%が朝鮮文字しか読めないという事実なんだ!」
その時玄竜は突然きききと嗤い声をたてた。
「黙れ!」
「黙れ!」
と云う声が嵐のように起った。
「まあ、いい」と李は目をつぶって気を押し静めようと努めながら呻くようにふるえを帯びた声で論を進めた。「朝鮮語での述作がこの人達に文化の光を与える為にも、はた又彼等を愉《たの》しませるためにも、絶対的に必要なのは論を俟《ま》たぬことではないか。今も厳として朝鮮文字の三大新聞は文化の役割を立派に果しているし、朝鮮文字の雑誌や刊行物も民衆の心を豊かにさせている。朝鮮語は明らかに九州の方言や東北の方言の類《たぐい》とは違う。もちろん僕は又内地語で書くことを反対しているのでもない。少くとも言語のショービニストではないのだ。書ける人はわれらの生活や心や芸術を広く伝えるために大いに働いて貰わなければならない。そして内地語で書くことを慊《あきた》らずとする者、又は実際に書けぬ
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