るつもりだったが、田中にしろ彼女にしろ自分にいい感情を持っていないばかりか軽蔑さえしていたのだ。よく彼は一里もある明子の所まで歩いて行っては、いろいろと大胆さの限りを尽してみたが、彼女は彼の図々しい程異常な情熱を莫迦にするだけだった。朝鮮の貴族で天才だということも彼女にはちっとも効目がなかった。こういうふうに毎日彼女に素気なくされて帰る道すがら、前々から知り合いの女給の宿へ行っては泊っていた。彼がこの女給を斬りつけたのは、いよいよ意を決し田中のいない中を見計って明子を襲うたのがしくじったその晩の帰りのことだった。そのために内地から追放されて朝鮮に帰り、どうやら渡りをつけて娯楽雑誌などに筆を取るようになったが、彼は空想を逞しゅうしてこの若い恋の経験を神秘化し、明子という美貌の純粋な娘に熱烈な恋を寄せられたというふうなことを、バルカンの志士インサローフとロシヤの乙女エレーナとの恋物語(ツルゲーネフの作品『その前夜』より)まがいにいつも方々へ書き連ねたものである。それで人々もこれだけはまさか嘘ではあるまいと信じ、自分もそれを幾度も書いている中に、ほんとうのことのように思い違いさえして今は美し
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