やって卑屈そうに笑うのだった。けれどどうしてもそのことが気にかかってならないので、「……多分大村君じゃないでしょうね、そうですよ、きっとそうですよ」と何度も独りで強く肯いてみせた。
それから急に首を突き出し、手では奥のロビーの方を指しながら、
「一寸ソファーを借りますぜ」
と云うとくるり背を向けた。そしてロビーは人を待つのに役立つことを、自分はこんなによく知っているぞといわぬばかりの様子で、肩を揺りつつゆっくりとロビーの方へ向って進んだ。そう云えば彼の小説にはいつも、ホテルやロビーとか、ダンスホール、サロン、貴族夫人、黒ん坊運転手といったようなものがどっさり登場していた。ところで彼は何を思い出したのか、つと立ち止ったと思うと、振り返ってから叫んだのである。
「田中君が帰ったら一つ頼みますぜ。へ、僕は眠いんですよ」
二
広々としたロビーのソファーに横になって鼾《いびき》の音も高く、優に四五時間も心ゆくままに眠りをとった玄竜は、洋服の埃《ほこり》を打ち払いつつぼそぼそ起き上った。ロビーの中はもう薄暗くがらんどうである。両手を拡げてゆっくりと伸びをしながら何度も
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