苦しそうに咳をして、相貌を険しく歪めたまま不機嫌らしげにじいっと桃の枝を見つめた。もう花はすっかりなくなり枝々の先も折れ、見るかげもなく泥によごれている。触《さわ》らぬ神に崇《たた》りなしとどんな男からも怖れられた玄竜が、それしきの夢にこれは又何ごとだと思えば急に忌々しくもなって来た。惨めな残骸を曝《さら》している桃の枝が今の自分の姿とも思われるのだ。すると昨夜の花売り百姓の哀れな像が大写しで現われ、それが両手を振りながら絶望的に喚いている声が聞えて来る。
「どうして皆笑うんでがす、笑うでねえ、わっしあ斃《くたば》っちまうんだ。笑うでねえ!」
部屋の中は恰《まる》で煙幕をはられたようである。玄竜はこういう絶望的な声からのがれようとして、急に腕の間に頭を抱えて耳をふさいだ。そしてごろっとその場に倒れ身悶えした。そうだ、僕こそいよいよ斃ってやるぞ! 鐘路四辻の真中で自動車と電車の間に挟まって爆弾のようにはね散って死んでやるぞ! 事実彼は昨夜から自分の死ばかりを考えているのだった。死ぬには交通自殺に限る。大通りの真中でむごたらしく死んでやってこそ、最上最後の復讎が出来ると思っているのだ。それで僕も以って瞑するぞ。するとその時部屋の中は真暗くなり、天井といわず壁といわず温突の底といわず方々から、自分の残骸を嘲笑《あざわら》う群衆の嗤い声がわっははと湧き上った。彼はたえかねて追い散らすようにはね起きて、
「僕は死にやしない、死にやしないぞ」と悪魔のように叫んだ。激しく格闘でもするかの如く両手をめちゃくちゃに振り廻しつつ慌てふためいた。もう煙で目はくらみ息さえ苦しい。彼はついに正気の沙汰ではなくぐるぐると温突の上を這い廻り出したが、膝頭ががたがたふるえる。わっはは、わっははという声々は行手を塞ぎ、又方々から赤い焔がめらめらと燃え上って迫り来る。幻影に襲われたのだ。いよいよ彼は恐怖につきぬかれて何かを叫び叫びつつ出口を求めてあがき廻った。老婆はこの気違い男は又どうしたのだろうかと戸口の方へやって来てぶるぶるふるえ出す。だが、丁度うまく彼の逃げ惑う体が障子戸にのしかかったので、いきなり明るみの地べたへ投げ出された。老婆はきゃっと叫んで飛びのいた。少しは息使いも苦しくなくなり、暫く倒れている中に怖ろしい幻覚も収まって、彼はただ放心状態に大きな目だけをぐりぐりさせている。空には激しく雲が流れていた。その時約束通りに女流詩人文素玉が爽《さわや》かないでたちで現われたのである。彼女はその光景を見て驚いて立ち止ったが、直ぐ、大げさに手を拍ち腰をゆすぶってきゃあきゃあと笑いこけてから、
「おやおや、どうなさいましたの」
と駆け寄って来た。が、玄竜は気でもふれたようにただじろじろと彼女を物珍しそうに見上げただけである。老婆は魂消《たまげ》たと云わぬばかりにぶつくさ呟きつつ台所の方へ消え失せた。文素玉はひとりで当惑してしまったが、やっと気を立て直し渾身《こんしん》の力をふりしぼって彼を抱き起した。彼は昨夜酔いつぶれて帰ったなり寝床へ俯伏せになっておーおーと泣く中に寝附いていたので、洋服着のままであった。詩人は彼の洋服についた埃をはたいてやりながら、「一体どうしたというんですの」と云った。「ええ、玄竜さん、今日は又何かの霊感でも得たようね。早く行きましょうよ、もう直ぐ時間になりますのよ」
玄竜は痴者《しれもの》のように坐って気味悪げににたにた笑ってばかりいたが、その時ほんの少しの意識のかけらでも閃いたのであろうか、怪訝そうに首を長くして質ねた。
「何が?」
「おやまあ」彼女は玄竜の顔附にびっくりして後ずさってもじもじした。「……今日は祭日じゃありませんの、神社へ行きますのよ」
「神社?」
彼は何か六カ敷いことでも思い出すように問い返した。
「……そうよ」
すると玄竜は急にどうしたことかけっけっと笑い出した。神社という言葉が彼には突然忌々しく思われたのだ。神社の神は内地人の神であると誰も拝みに行かなかった頃、率先して内地人の群に投じ社頭にぬかずいた当初の彼は真に重大な人物で後光さえさしいろいろな役目もあった。けれど今はもうそうではないのである。寧ろ有象無象《うぞうむぞう》神社へ神社へと雲のように押しかけて行く朝鮮人達が憎くてならない位だった。文素玉は身の毛もよだつようにぞっとして身をすくめたと思うと、
「行って来ますわ」
とかすかに一言云い捨ててほうほうの態で逃げ出した。それを見て玄竜は気味よげにけらけらと嗤ったが、つと驚いたように立ち上った。空は益々|鬱陶《うっとう》しくなり雲が北の方へ北の方へと押し寄せて行く。咄嗟に彼は文素玉の温かくしめっぽい肢体に対する慾情にかられ、これは今こそ掴まえねばならぬぞと考えたのだ。その足で彼は慌てて崩れかかりそうな
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