くぐり門を抜けて庭を飛び出した。じめじめした路地に家々は芥箱のようにいがみ合い、下水には灰やきたないものを捨てたり流したりしているので、悪臭がむんむんとむれ上り、激しい風に灰や埃が吹き飛んでいた。小路を抜けて遠くの方へ蒼惶《そうこう》と逃げて行く女流詩人の姿がひらひらと靡《なび》いて見える。玄竜はけらけら笑いながらがに股を懸命に泳がせて意地悪く追いかけ始めた。逃げ足だっている彼女は一度振り返って見たとたんに、両手を振り振りやって来る玄竜に一層魂消て悲鳴を上げんばかりになりつつ走って行った。彼はだんだんと追いつくようになるにつれ、益々面白くなって何かを叫んだり喚いたりさえした。土壁の傍で土遊びをしていた二三の子供達が手を叩きながらはやしたてた。が、やっとのことで転げるように文素玉は路地をぬけて黄金大通りへ逃げ出した。丁度その時だった。玄竜が最後の路地を曲ろうとした瞬間に、突然大通りの方から喇叭《らっぱ》の音が嚠喨《りゅうりょう》と響いて来た。玄竜はぎくりとして立ち止ったかと思うと、急にどうしたことかぶるぶると体をふるわせ始めたのだ。次の瞬間自分の方から逃げ隠れるように傍の家の煙突の後ろにぴったりと体をすりつけて、息をころし目を爛々《らんらん》と光らして大通りの方を睨んだ。楽隊を先頭に立てた長い行列が神社の方へ向って行進している。何だかそれが自分を包囲し迫って来そうに思われるのだった。ゲートルを巻き附けた中学生や専門学校の生徒達が行けども行けども続き、後の方には国防服を着けた先生やその他新聞雑誌の人や顔見知りの文人達がぞろぞろとついて行く。
 行列が通り過ぎてしまうと彼は又急に慌てて出口まで飛び出した。物陰に息をひそめてどんよりとした目で眺めれば、それはもうひっそりとして遠くに消えかかっている。もはやどこか行列の中へでもまぎれ込んだらしく姿を消した女流詩人のことは忘れ去って、玄竜は行列の進んで行った方向とは反対の方へ、誰かかに追われてでもいるかのように逃げて行った。頭の中が砂を一杯ぶち込まれたようにくらくらと混乱しているのだ。時々ホテル、お寺という想念が雲母《うんも》の如くぎらぎらと光を帯びて正面に塞がるけれど、立ち所に又激しい砂風におおいまくられてしまう。何だか薄寒い日である。今に月でも出そうな朝であると、彼の心の一隅に別な人間がいて思うようだった。だが月どころか小雨がしょぼしょぼと降り始めた。路行く人々の足が目立って急がしくなってゆく。玄竜は電車路の真中を狂犬のようにあてどもなく進んで行った。もうぼうぼうの頭が雨に濡れて渦を巻き、肩は雨で重そうに垂れていた。自動車が傍を掠《かす》めて走り電車は後ろの方で激しく警笛を鳴らす。その音がようやく耳にはいると彼は黙ったまま静かによけるのだった。時にはよけると共に振り返って拳を振り上げて、「野郎僕を殺す気か」と狂人のように叫んだ。
 けれど半時間あまりも歩いて師範学校前辺りまでやって来たかと思うと、ふと何かに取り憑かれたように右に折れて暗い小路の方へはいって行った。泥が靴にはねつき靴は水を蹴る。その中に雨は本降りになり出した。路地をばたばた走っていた人々は驚いて立ち止り、振り返って見て首を振った。彼はどこまでもどこまでも小路の続く限り、無我夢中に左へ曲ったり右へ抜けたりしつつ縫い歩いて行くのだ。今自分は寺を捜して行くんだと、ちりぢりにほぐされた神経の一つが遠い所でのように囁く。その小路をしまいまで登りつめれば妙光寺になると思われているのだった。再びあの新町裏小路の蜘蛛の巣のような迷路にはいっていたのである。玄竜の幻覚においては、それはポプラの亭々《ていてい》として立つ広い並木路のように見える。泥だらけの下水は綺麗に水の澄んだ小川の流れのように思われる。そこでは盛んに蛙が口をそろえてぐわっぐわっと鳴き騒いでいるような耳を聾するばかりの幻聴を聞いた。その上風がひゅうひゅうと吹き荒んでポプラの枝がへし折れそうに見える。もはや彼の足は躓《つまず》いたりのめったり、水溜りにあやまって落ち込んだりしていた。でも彼は夢中になって這い上る。その時に突然足元の方で蛙共が、
「鮮人《ヨボ》!」
「鮮人《ヨボ》!」
 と騒ぎ出したように聞えたのである。彼は怯えたようにいきなり耳を塞いで逃げ出しながら叫んだ。
「鮮人《ヨボ》じゃねえ!」
「鮮人《ヨボ》じゃねえ!」
 彼は朝鮮人であるがための今日の悲劇から胴ぶるいしてでも逃れたかったのであろう。ところが突然彼の鼓膜が轟音を立てて爆発したように思われたが、不思議にも先の蛙共の音は消え失せ、何かしら急に辺り一面から不思議な音が聞え出した。それがだんだんと複雑に大きくはっきりと聞えて来る。いつの間にかもう何千何万の人々が唱え合ってでもいるような、南無妙法蓮華経、南無妙
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