って来て袖を引張りつつせき込みながら、
「田中君、田中君、実は君に折り入っての話があるんだよ」
 と哀願するように呻いた。
「もっとつき合ってくれな、もっと」
「ほう、これはいい花だね」
 と、田中はまぎらわせる様にしどろもどろに呟いた。そこで玄竜は急に勝ち誇った様に元気を出して桃の枝を肩に担ぎあげるや、
「そうだろう、いい花だろう、桃の花だよう、桃の花なんだ」と、声高に銅鑼《どら》声を上げつつ、恰《まる》で兵隊ごっこをする子供のように先頭を切って出て行った。やはり自分もこの偉方達にくっついて一緒に歩き廻りたくもあったのである。大村や角井と田中は後から仕方なさそうに嗤いながらぞろぞろと出て来た。蒼然とした月がぼっかり空にかかっているけれど、小路は相も変らず薄暗かった。彼は少しくおどけて桃の枝を担いだまま体を揺りながら二間程進軍して行ったが、突然立ち止って胸を張り空を見上げ不意に桃の枝を股の下に引きずり込んで乗っかるようになったかと思うと、天に合図するかの如く手を振り上げて一度けらけら笑った。他の三人は知らぬ振りをして彼の横をすごすごと過ぎて行く。彼は慌てて声高らかに叫んで曰くに、
「僕は天に上るんだ、天に上るんだ、玄竜が桃の花に乗って天に上るんだ!」
 そこで恰も木馬に乗った勇士のようにすっすっと彼等の傍を突き進んで行った。意想天外なこの神秘主義者を見てくれといわぬばかりに。花々が無慙に首を折られ花びらをよごして所々に落ち散らばった。が、ふと思い出したように振り返って見ると、田中が一人暗がりの芥溜に小便を垂らしている。それで玄竜はこの時だとばかりその傍へ飛んで戻るや息をはあはあ切らしつつ、「田中君」と喉に詰った声で囁いた。「大村君に僕のことを頼んだぜ。お寺へ行かぬようにしてくれ、お寺へ」
 その声があまりにも絶望的な悲しみにうちふるえていたので、驚いて田中は玄竜の顔を見つめた。ぞっとするようにひきつって見える形相が急に崩れて、気味悪い笑顔が浮んだ。それから彼の片方の手が自分の肩を卑屈そうに打って来た。
「あれはどうも官僚だからへいへい云わないと悦ばんのだよ。芸術家というのも分っていないんだよ……明日ホテルに行くぜ」
 と云い捨てると、再びこれ見よがしに桃の枝に跨がって引きずりつつ天を仰いで喚き始めた。
「玄竜が天に上るんだ、天に上るんだ!」
 その際に大村と角井は田中を横小路の方へ引張って大通りに出ると、自動車を止めるために手を挙げた。小路では益々いい気になった玄竜の喚き声が続いていた。

          五

 とうとう天には上れなかったのだ。翌朝彼はやはりいつものように穴部屋の中で、苦しそうに悲鳴を上げると共に目を覚した。誰かに縄で首をしめられる悪夢にとりつかれたのである。体は汗びっしょりだった。何しろ体を動かすのが怖ろしいようで、再び目をつぶり息ばかり激しく喘いだ。本当に首の方は大丈夫なのだろうかとわくわくふるえつつさわってみようとして、手を持って行こうとしたとたんに、何かごついものに手先がふれたのでびっくりした。本当だなと思い、目をつぶったままじっと息をころした。全く祈るような気持になって、今度は憚るようにそうっと反対の方の手を出して用心深そうに首筋の方へ近づけようとした。おや、そうでもないらしいぞと思う矢先に何かが又指先にふれてぎょっとし、そのまま仏像のように固くなった。ものの二三分もしたであろうか、やっとこさ心を落着けて、それは一体何だろうかともう一度つついてみようとした。気のせいか今度は触れたものが少しばかり揺れたようである。何だかおかしいぞと思って二つの指で挟んでみて、おやおやと引きずられるままにそれをまさぐっていたかと思うと、
「なあんだ!」とあきれ返ったように叫びながら、彼は首筋の所へおいかぶさっているものを慌てて払いのけるのと同時にはね起きた。それはがさがさと物音をたてて吹っ飛び温突《オンドル》の上で揺れている。他ならぬ、泥まみれになった桃の枝だったのだ。彼はふーと大きく息を吐き出し手で首筋の汗をふいていたが、急に気でもふれたようにけらけらと笑った。が、瀬戸物でもこわれたような自分の声までちっとも変っていないので、彼はいよいよもう大丈夫だと胸を撫で下した。
 むさくるしい部屋の中が尚薄暗いところからすれば、まだ朝は早いようである。一日中これっぽっちも陽の当らない穴ぐらのような所ではあるが、でも彼には紙張障子の明るさ加減が時計のかわりになっていた。裏の方に続いた台所の土間では、老婆が今日も亭主と喧嘩をしているらしく何かを突慳貧《つっけんどん》に喚きたてながら焚口に火をくべていた。土間に一杯たちこめた煙が温突紙のやぶけたところや、障子の穴、壁の割れ目等からもやもやと侵入して来る。彼は息がむせるようで二三度
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