彼も亦口では内鮮同仁(日本帝国主義の植民地政策の一つで、朝鮮民族を日本人に同化させるためのスローガン)を唱えながらも、自分は撰ばれた者として民族的に生活的に人一倍|下司《げす》っぽい優越感を持っている。だがただ一つ芸術分野の会合等に出ると、自分が朝鮮の文人達のように芸術的な仕事を何もし得ないことにひけ目を感じ、弾《は》ね返っては彼等を憎々しくさえ思っているのだ。それで特に朝鮮の文人達を莫迦にしようとこれ努め、内地から誰か芸術家でも来ると玄竜にひけをとらぬ程の熱情で授業さえ休んで出掛け、加俸の分だけを惜しいともせずに方々引張って酒を飲ませながら、事毎《ことごと》につけて朝鮮人の悪口を学問的な言葉で並べたて、口癖のように、あ、あれを見て安心した等と呟く。今夜は殊にこういう最も卑しむべき文人の玄竜に会ったので、いよいよ彼の自尊心は増長したのである。それでいかにも物々しく肩を聳《そびや》かしてくんと吠えながら背を向けてしまった。だが玄竜もさる者それには振り向きもしないで、依然田中を掴まえたまま喚きたてていた。
「おう田中、僕はな君を捜し廻ってすっかり草臥《くたび》れ、さんざん恨みながら飲んでいた所なんだぞ。よう会えたな。全く六年振りじゃねえか、そうだ、妹の明子さんは元気か? 僕は今も明子さんのことを忘れていやしないぞ」
気の弱い田中は彼の口まかせに喋りたてる言葉にいい加減うんうんと肯きつつ、口を窄《すぼ》めて薬酒を少しばかり嘗めるふりをした。
角井もひとりで丁度二度目の盃を口に持って行くところだったが、明子の話が出て来たので吹き出してしまった。そしてそれだけでは足りないと思ったのかはははと声を出して哄笑をした。先程玄竜の噂をしている中に、彼は田中からこの男が彼の妹に無茶をして困ったということを聞かされたからである。玄竜はいつも田中のいない頃を見計って彼女を訪ねて来ては、田中のどてらに着替えいかにも主人顔で机に頑張っていて、当の彼が帰れば恰《まる》でお客でも迎えるような調子でこれは珍しいね等と云っていたという話だった。それも或る日の夕方のこと、田中は街のなかでひょっこり玄竜に会い、大変なことがあるからと持金をすっかりまき上げられた。そして後から帰ってみれば、玄竜は林檎やシュークリームをどっさり買って来て妹に無理矢理に食べさせながら、きききと悦んでいたのだ。角井はそれを思い出したのである。――だが今や玄竜は田中に会えたことを思うともう凡ての悲しみも苦しみも霧散し、ひとりでに嬉しくなっていよいよ多弁になっていた。殊に傍には角井もおり、今まで筆を取る度に威張り散らした手前もあるので、思い切って大きく出て来た。
「帰ったらS先生にも宜しく云ってくれ、奴は朝鮮に帰ってからも中々やりおりますとね」
或は、
「T先生は元気かね」
それから、
「R君はどうしている?」
「D君の奥さんは?」
けれど生憎《あいにく》、田中はSやTとも親しくしているような小説家ではなかったので、しどろもどろにばつを合わせた。何しろ彼は此頃スランプの中にいて書けないので、流行の満洲にでも行ってうろついて来れば違ったレッテルもついて新分野の仕事が出来るかも知れないと出掛けたまでだった。それでも発つ時に或る雑誌から朝鮮の知識階級に関する文章を求められているため、彼は今先まで自分に先生先生と馴れ馴れしくついて廻っていた低級な文学青年達を興味深く観察し、彼等と別れると大村や角井からいろいろ参考意見を聞いた所だった。殊に角井の至って人間学的な説明に依れば、朝鮮の青年というものは悉《ことごと》く臆病でひがみ根性があり、おまけに図々しくしかも党派心の強い種属ということである。丁度そのいい標本が田中も東京から知っている玄竜だと述べていた。それ故東京の或る知名な作家尾形が京城へ立ち寄った際、大村の肝煎《きもい》りで朝鮮の幾人かの文人達と一席を設けたところ、その席上で三十分もせぬ中に彼が玄竜の中に朝鮮人全部を見てとったのは、さすがに鋭い芸術家の烱眼《けいがん》だと讃嘆して附け加えた。尾形がここに朝鮮人ありと叫びながら玄竜を指差した時、実のこと、朝鮮の文人達は全く唖然とせざるを得なかった。が、当の玄竜はいかにも得意そうににたにたと悦に入っていたのである。田中は僅か一両日の滞在でしかも酒にばかり追い廻されて観察どころではないが、尾形に負けない程辛辣独特な観方をして書き送らねばならないと決心していた矢先なので、寧ろ代表的な朝鮮人と角井から太鼓判を捺された玄竜にひょっくり再び会ったことを幾らかは悦んだ。彼は角井の悪意に満ちた言葉に些《いささ》かも疑いを挟まなかった。いよいよ自分の直観の鋭さを示す時が来たと躍起《やっき》になって、彼は今度は朝鮮民族を検分するかのような物腰で自分から先に口を切った
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