湃《ほうはい》として時局認識運動が高まり、鮮かに水煙りを飛ばして彼等が自分を追い越し去ったのだ。それを思えば他の連中が歯ぎしりする程憎くてならない。今では貴様を監獄にぶち込むぞという恫喝《どうかつ》も出来なくなってしまった。彼に残されているものは方々ゆすり歩いて文なしでも酒の飲める口だけである。それが怪しからんというので、大村はこの僕に寺へ行けと命じているではないか。もう大村にまで見捨てられたからにはどこへも行き所のない人間なのだ。彼は使うだけ使って今になり事新しく自分にお寺へ行けと命ずる大村が憎くてさえならなかった。だがもうほとほと気力もつきてごとりと桃の枝を床の上に落し、彼は目頭に涙さえ浮べながら更に沈んで盃を重ね始めた。
四
凡そ十時頃にでもなったのであろうか、玄竜はへべれけに酔い潰れてしまった。お客は始終入れかわり立ちかわり騒々しかったが、ふと彼の後の方から又新しい客のはいってくる気配がして、歯切れのいい内地語が聞えた。
「至極悠長な朝鮮人にしては一寸面白いせかせかした所ですよ」
おや聞いた様な声だぞと思って、玄竜はじっと聞き耳をたてた。
「まあ内地で云えば大きくした焼鳥屋とでも云いますかな。あのくだらない鮮人《ヨボ》連中から解放されたすがすがしい気持で、一つ朝鮮の酒でも嘗めてみませんか。全く大変でしたね」
新しくはいって来た男達二人は玄竜の傍へ立ち並んだ。こう云われている男は今まで彼等の後をぞろぞろとついて廻りながら、田中に先生先生とぺこぺこしていた朝鮮人の事大的な文学くずれ達のことに違いなかった。玄竜は警戒するように首をちぢかめた。
「それでもまあ面白いじゃないですか。あんな人達と会って話してみるのも……実際大陸の気分が出ましてね」
確かにこの勿体振《もったいぶ》っただみ声は田中に違いないぞと、玄竜ははっと耳を欹《そばだ》てた。
「おや、あなたはそれを本気で云うんですか」
と、案内役の男は大分不服らしげに叫んだ。「あなたは妙なところに又感心したもんですな」
「いや、それ程でもないんですけれど……だが実際にあの人達は自分で云っているように、文壇や劇壇等で相当活躍しているんでしょうかね」
「そうですよ、あの連中が一流どころですよ」と、せっかちになって先の男は事実を誣《いつわ》るのだった。「今度|鮮人《ヨボ》連中の作品が内地語で翻訳されたのを読んで私は先ず安心しましたね。すっかり安心しましたよ。それ位なら私のような素人でも書けますよ。朝鮮の地方的な文化もやはりここへ来ているわれわれの手で築き上げるべきもんですな。ところでさあ、一つどうです」
と盃を取り上げた。
やっとその時になって玄竜は横合いの方から臆病そうに首を突き出し、慌てたように朦朧《もうろう》とした目をこすって見据え、口をばっくりと開けた。実にそれはまぎれもなく東京の田中が、ある官立専門学校教授の角井に案内されていたのである。盃を口に持って行っていた彼等二人も、玄竜に気が附いてびっくりした。
「やあ田中、田中!」と玄竜は叫びつつ大手を拡げて、すぐ傍のひょろひょろした体へ抱き附いてしまった。他の客や女はみな驚いて目を瞠《みは》りこの異様な光景に魂消《たまげ》た。内地人をそんなふうにして果していいのだろうかと気味悪くさえ思うのである。田中は一目でそれが先程大村や角井と三人で噂し合った玄竜であることを知ったが、あまりにも意外な場所での邂逅と突拍子もない抱擁に面喰らってしまった。何よりも息がつまりそうで苦しかった。玄竜は彼を抱いたまま狂気のようにぐるぐる廻るのである。
「怪しからん、怪しからん、僕は恨んだぞ、大いに恨んだよ。黙って来るってそんな法があるかよ」
「済まん、済まん」
と、田中は救いを求めるようにかすかな声で呻いた。
「さあ、そこで一杯やろう、盃を取ってくれ!」玄竜は素早く飛びのき盃を取り上げた。
「おう田中君、僕は君が朝鮮に寄ってくれたので感謝しているぞ、本当に嬉しいぞ!」田中が大村と一緒でないことが尚のことうれしいに違いなかった。彼は再び殆んど抱き附くばかりの恰好で、「やっぱり君はやって来たな。ようくこの新しい朝鮮を観察してくれよ。頼んだぞう! さあ、一杯ぐっとやってくれ!」
そしてついはめを外したあまり、
「さあ、角井さん、あんたも大いに飲んで下さい!」
と、彼の背中さえ痛い程叩いた。角井は玄竜とはU誌の会で一二度会ったきりで、そうこんな男に馴れ馴れしくされては自分の沽券《こけん》に関ると考えるのだった。もともと彼は大学の法科を出ると共に朝鮮くんだりへ来て真直ぐ教授にもなれたのだが、此頃は芸術分野の会にまでのさばり出るなど内地人の玄竜ともいうべき存在だった。朝鮮に出稼ぎ根性で渡って来た一部の学者輩の通弊の如く、
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