玉はいきなりそそくさと身をかわして入口の方へ行き、ドアを開け若い大学生を引張るようにして外へ出て行った。玄竜は打ち砕かれたように茫然と立ち尽してそれを眺めた。後の方では皆がきききと笑い合う声が聞える。ところが又三四分もしない中に、彼女は慌しく彼の方へ飛び込んで来て、「あたしの従弟ですの」とせき込みつつ小さく叫んだ。「芝居へ行こうと約束していたのをすっかり忘れていたんですの」
 そしてはっと思う間に、
「明日の朝行くわ」
 と耳元に囁いて再び飛んで出て行ったのである。
「待て、待て!」
 と、後から急に狼狽したように叫びつつ彼は手を振りながら飛び出した。だがもう外は暗い夜で二人の影はどこへ行ったのやら、既に杳《よう》として消え失せていた。

          三

「くそ忌々しい、畜生! 覚えとけ」
 等と、小説家玄竜は肩をすくめたまま何度もぶつぶつ呟きつつ、朝鮮人街で一等賑やかな鐘路通りをさしていかにも浮れたような足取りで歩いて行った。あの女郎奴までこの俺を莫迦にしている、少々ふざけているぞと彼は自分に云った。何だか大事な手中の玉を奪われたような気がしてならなかった。するといつものように彼女の不調和にも長い胴の下に続くいびつに大きなお尻が目の前にちらついて見え、それに向って温かい血潮の擾乱がどくどくと流れる切ない快感を覚えるのだ。彼はひとりでに気がむせんで来てごくりと音を立てて固唾《かたず》をのんだ。その時ふとどうしたことか、彼は自分の耳元に彼女の囁き声が聞えたように思われたので、はっと驚いて振り向いてみた。けれどむろんそこに文素玉の影もあろう筈がなく、ただ道行く人が一人|胡散臭《うさんくさ》そうに立ち止って彼の姿を眺めていた。くそ忌々しいと彼は再び口に出して呟いた。
 白堊建の大きな朝鮮人経営の銀行前を通って、いつの間にか鐘路四辻の方へ近附いて来た。急に辺りは騒々しくなり、人力車は走り自動車は流れ電車はもどかしげに警笛を鳴らしている。百貨店和信と韓青ビルの高層建築を起点として、東大門の方へ向って大通りを挟み立派な建物が海峡のように連なっていた。丁度四つ角に立っている旧世紀遺物の鐘閣の前へ出ると跼《せぐくま》っていたおいぼれの乞食達は手をさし伸べ、きたならしい乞食の子供達はどこからともなく稲虫のように群がって来た。今年はめっきり乞食がふえている。彼は物々しく手を振り上げて子供達を追い散らした。韓青ビルの前あたりからは歩道にも夜店が出張っていて人々の流れで雑沓し、売子達の掛声が喧しく響き返っている。丁度その夜店並びの入口のところでは、物見高い連中に囲まれて白い頭巾をくるんだ百姓男が酔いつぶれたらしく手を振りつつ、何かを喉につまった声でしきりに喚いている。一体どうしたのだろうと首を出して覗いてみれば、男の傍には支械《チゲ》が立てられ、そこには大きな桃の花の一杯ついた枝々がのっかっていた。それで支械は花束に埋れた形で、首をうな垂れている花々はいかにもいたいけである。
「わっしあ嬶《かか》を貰った年に二人でこの桃の木を植えたんでがす。その嬶が死にやがっただ。その嬶がよ」と百姓は叫んだ。「白米の重湯が食べてえちゅうので地主さんところへ借りに行った間に死にやがっただ。さあ、わっしあ桃の枝をぶった切って担いで来たんでがすぞ、買って下せい、一枝二十銭、多くはいらねえ、二十銭でええ」
 山をなす人々は面白そうに顔を見合わせながらげらげらと笑い合った。玄竜は懐手をしたまま人垣を押して中の方へぬっと現われ出た。そこで暫くの間目尻を下げて、いかにも感慨無量といった様子でしげしげ桃の枝を打ち眺めた。何故かしら惻々《そくそく》と胸の中を伝わって来る悲しみを覚える。彼は何かに取り憑かれたようにつかつかと支械の傍へ進んで一枝を取り上げじいっと思いをこめて見上げた。今を満開に咲き誇っている薄紅色の花が二十程もつづらなりに枝をおおうている。
「さあ、旦那買って下せい。わっしあこれをたたき売って酒を飲んで斃《くたば》ってみせまさあ、え、皆どうして笑うんでがす、買って下せい。笑うでねえ、買って下せい。……へ、これは有難え、有難え」
 片方の手でばら銭を捜していた玄竜が白銅貨を二つ三つ掴み出してぽんと投げ出したのだ。百姓は狂喜して頭を地につけ拝んだ。それを尻目に玄竜は黙ったまま桃の枝を肩にかけると人々をかき分けるようにして再び人混みの中へ出て来た。その時彼は自分の恰好からか不意にそれといった脈絡もなしに十字架を負えるキリストを憶い出し、自分にもその殉教者的な悲痛な運命を感じようとした。自分こそ或る意味では朝鮮人の苦悶や悲哀を一上身に背負って立ったような気がせぬでもなかった。成程朝鮮という現実であればこそ、彼のような人間も生れ出、且つ社会の中をのさばり廻ることが許され
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