》いた。だが、彼の素質がおいおいと露見するにつれて、とうとう卑俗なジャーナリズムでさえ彼の文章を受けつけなくなり、文化人達は相結束して彼を文化圏内から放逐することにした。こうして身動きが出来なくなったその時から、彼は酒を飲めば柔道のことはもう一切口に出さず、いつの間にか誰に向ってでも貴様こそ監獄にほうり込まれてえのかと、こけおどかしに叫ぶようになったのだ。同時に彼はどんなことでもしおおせる男として皆から怖れられ出した。こういう男にでさえ、苟《いやしく》も時局的な言葉で迫って来る限りびくびくせねばならぬとは、朝鮮の文化人のために何という悲しむべき事であろうか。それにつれて玄竜の心も益々やけに荒《すさ》び、街で一層暴行や恐喝に猥雑な行為を働き廻るようになったが、今度は巡査にとがめたてられても、けらけらと嗤い僕のことなら大村君に聞けと呶鳴り附けるのだった。
 彼がこういうふうに人の前でいつも君附けに呼ぶ大村というのは、実は朝鮮民衆の愛国思想を深めるために編輯される時局雑誌Uの責任者である。内地から渡って来たばかりの元官吏でまだ朝鮮やその文化の事情に疎《うと》い彼は、最初に近寄って来た玄竜こそ、彼の言葉の通りに朝鮮文壇を実際に担《にな》う小説家であり、又その性格破綻に近いところなどは、いよいよ彼が非凡な芸術家である所以《ゆえん》だと頑《かたく》なに信じ込んだ。こうして絶望の玄竜はわけもなく大村に取り入り重用されるようになったのだ。ところが、好事魔多しとかでそれから間もなく、玄竜は或る至って奇妙な事情からスパイの嫌疑を受け憲兵隊に挙げられたのである。丁度或る麗かな日の午後のこと、彼はいつもの本町通りで一人の年若い妖艶なフランスのアンナと称する女を見かけたのだった。彼は勇躍してボナミとかマドモアゼル、ウイメルシイとか片言を並べつつ近附いて行った。青い瞳の女も中々心得たものでたどたどしい日本語ながら、自分は漫遊に来ていて間誤《まご》ついていると云ってやんわり笑った。彼は益々いい気になって方々彼女を連れて歩きながら、道行く人々に聞えよがしに、ボンジュール、トレビアン、ボウギャルソン、ススワルとか知っているだけのフランス語を全部叫んだ。そして態々《わざわざ》古本屋へ引張ってはいり、自分のプロフイルの出ている三流雑誌を捜し出してグラビヤの頁を開き、誰であるかを知っているかと得意気に自分の写真を指差した。おーと彼女は驚いたふうをする。そこで彼は悦に入っていきなり人の目を盗んでその写真をちぎり取り、無理矢理に彼女のハンドバッグへ押し込んだ。その後アンナは豆満江国境でスパイとして検挙され、彼は件《くだん》の写真が彼女の手元から出て来たために、同じく嫌疑を受けて留置された。こうして大変なことになるところを、大村が官庁の力でいろいろと釈明奔走して身柄を貰い下げてくれたので、彼は大村には一世一代の恩義を感ずるようになった訳である。でなくても朝鮮の一般の人々に野良犬同様に見放された現在の彼は、大村にまで捨てられては野垂死《のたれじに》するより致し方がなかった。が、今はもう朝鮮にも愛国熱は漸次高まって所期の目的は殆んど達せられつつあるのに、愛国主義をふりかざして社会の公安を妨げ到るところで悪事を働く玄竜を、そのまま用いることは大村の威信にも関ることと云わねばならぬ。その実又玄竜に関する限り、司直当局に対する非難攻撃が甚しく警察でもそろそろ内査を始めたのだった。それで大村は警察に渡すには忍びない気持と持前の信心深さから、お寺へ赴《おもむ》き坐禅修行をして早く謹慎の状でも見せろと命じたのである。事態がこうなってみると、玄竜はその命令に背《そむ》く訳には行かなくなったのだ。いよいよこの二日の中に出掛けねばならなかった。それ故この際東京の作家であり又大村と同窓でもある田中が来城したことに一切の望みをかけ、自分が自由に足を伸ばし得るように、いろいろと大村を彼から口説いて貰おうとする訳である。だからパリ娘のアンナに会った以上に重大であることはむろんだった。
「僕はこれから田中君を捜しに鐘路裏へ行くのです。さあ一つ出掛けましょうか」
 と、玄竜は急に元気になってトーストを一度に二片も口に突っ込みながら尻を上げた。
「あたしも行きますわ、……あ、それいいわよ」
 と云って、女流詩人は彼の手から勘定書をもぎ取って立ち上ったが、どうしたのか急に表情が強ばって石のように固くなった。間もなく彼女は少しばかりおずおずし出した。おやっと思って玄竜が振り返って見れば、入口のところに角帽を目深く被った背のひょろっとして高い大学生が蒼くひきつった顔をして突立っていた。そしてじろりと玄竜を睨んだ。その時急に悩しげなスペイン民謡のレコードは止り、人々の視線は一斉にこの三人の方へと向けられていた。文素
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