一種の保護観察なんですのね、思想犯じゃないけど……」
「そうなんですよ」と彼は泣面をかきながらおろおろ声をしぼった。「僕は明後日までには坊主になってお寺へ行かねばならんのです」そこで彼はぶるっとふるえ上り膝を乗り出した。「ところがですね、実に素晴しいことには、東京の作家で僕の親友でもある田中君が京城へ来ているんです。是非会いたいということで先程朝鮮ホテルへ行ったけれど、とても遅かったので奴さんはしびれを切らして、大村君あたりと一緒に出掛けたらしいのです、あまり気の毒なんで僕はこれから捜しに行こうとするところです。何なら紹介して上げましょうか、朝鮮のジョルジュ・サンドとして又僕のリーベとして……」
「…………」詩人は目をつぶって嫣然《えんぜん》と笑った。彼女はいよいよ若い大学生と待ち合わせていることをすっかり忘れてしまった。「え有難う、紹介して戴きますわ」
「そうしたら」玄竜はじいっと彼女の笑顔を見つめていたが瞬間、そうだ今晩は久し振りにこの女を連れて帰るんだとひとり肚《はら》で定め込み、
「これを聞くと田中君の妹が妬きましょうぜ、へへへ」
「あら、そうでしたの、東京の恋人ってその方のお妹さん? おほほこれは面白いわね」
「そうなんですよ、そうなんですよ」と彼は我意を得たりとばかりいかにも愉快そうに叫んだ。「僕が東京を引き上げる時彼女が追いかけて来ると云って大変だったのです。兎に角田中君も今じゃ大いに芽が出て、もう中堅の作家ですよ。どうでしょう、彼を囲んで僕達が一度集ったら、その時も是非来て下さいね」
「え、それはむろん行きますわ」
「ところで、実はですね、田中君は大村君とは大学の同窓でとても親しい仲なんですよ」と後にぐっと身を反らして急に真剣な表情を作った。が、それには惨めとまでいえるようなほのかな明るい影が浮び上った。「そこで僕は田中君に大村君を口説いて貰おうという訳なんです。つまり芸術家を理解させるんですよ。そうです、これは確かにパリ娘のアンナに会ったこと以上に重大なことです。そしたらきっと僕はお寺へ行かないで済むと思うのです」
「そうですわね、それがいいですわ、それがいいですわ」女流詩人は肩をゆすぶりつつ息もせわしく心からの悦びを現わした。
「ほんとうにそうなればいいですわね」
事実小説家玄竜にしてもそう悪い人間ではなく、性根は至って弱い臆病者で、文学の才能にもいささかは恵まれていた。ただ長い間のどうすることも出来ない窮乏や孤独や絶望が、彼の頭を攪乱《かくらん》してしまった。それに今は朝鮮という特殊な社会が彼を益々混迷にぶち込んだのである。一種の性格破綻から父や兄には勘当され、学業は成らず生活費のあてとてなかった。東京での十五年間の生活というものは、それこそ正しく哀れな野良犬同様だった。殊に悪いことには自分が朝鮮人であることをどう隠そうにも、彼の骨組や面貌がまぎれもなく朝鮮人に出来ているので、下宿へ宿ろうとしても第一が顔、それにぼろぼろのズボンと来ているから、てもなく断られるのである。で、彼はふと神の啓示でも受けたように苦肉の一策として、急に自分は朝鮮貴族の息子でしかも文学的な天才であるばかりか朝鮮文壇では第一流の作家だとふれ廻ることにした。彼はそれで、朝鮮人であるがためにより余計に受けねばならない蔑視や気拙いことをも多少は緩和させ、いくらか暮しの上でも融通をきかせようとする心算である。ところが奇蹟的なことにはその方法が全く功を奏して次々と二三人の女に飼われることが出来た。こうしてとやかく一二年する中にすっかり彼は自分が本当の朝鮮貴族であり又文学の天才であると錯覚を起してしまった。だが文学の道だけはどうにもままならずで悶々としていたが、或る年、女を斬りつけた罪で送還を余儀なくされ、ついに破れかぶれの気持で朝鮮へ引き上げたのである。それからは朝鮮語で奇を衒《てら》うような、或は淫靡《いんび》を極めたような文章を綴って低俗な雑誌へ方々売り込みに歩いた。信玄袋にはいつも原稿を入れて担いで廻り、バーやカフェーを荒しては巡査に捕えられ職を訊かれると、得意になって文士の玄竜だと云い放った。招ばれもしない会に現われては口を開けば、フランス語やドイツ語ラテン語のうろ覚えているだけの単語を出鱈目《でたらめ》に喋りちらし、人の前では自分は柔道初段以上だからと胸を張ってみせる。そしていつも東京文壇で自分が如何にも大活躍していたようにだらだら自慢話を並べ立てた。それが恰《あたか》も今の朝鮮での自分の存在を高めるとでも思っているかのように。万事がこういう調子なので、だんだん世間の人は彼を気違いとして取り合わぬようになったが、そうなればなるほど彼は願ったり叶ったりでいよいよ有頂天になって、真実の天才なればこそ俗人達には容れられぬものだと嘯《うそぶ
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