得たからである。混沌とした朝鮮が僕のような人物を必要として生み出し、そして今になっては役目が尽きると十字架を負わせようとするのだ、彼はそういう自覚に立ち至ると益々悲しみが胸をつき上げて来て、どうっと慟哭したい位だった。けれどそういうことも束の間、歩道一杯の人々が驚いたように皆自分の異様な恰好を眺めているのに気が附くと、寧《むし》ろ今度はけろりとしていささか得意にさえなったのである。へっぽこ詩人の女郎奴、貴様がついて来たら本当にこの僕の天外な像が分っただろうに、莫迦な女郎奴と彼は心の中で文素玉を憎々しげに罵った。夜店の前は押すな押すなの込み合いである。先からの乞食の子供達は面白そうに五六名後をついて行った。その中に突然前の方で喧嘩が始まったとみえ騒ぎ出したので、彼は避けるようにして少しばかり戻って来ると、イエス書館の横から折れて薄暗い小路をはいって行った。乞食の子供達はこの時とばかりもう一度彼の傍へまつわりついて来て手を出しながら、
「旦那、恵んで頂戴」
「恵んで頂戴」
と哀れっぽい声を絞った。彼はつい気が滅入ったようになって銅貨をばらばらと五六枚投げ与えた。子供達は奇声を上げ暗がりの中で頭をお互いぶっつけ合いながらもがき出した。玄竜はそれを振り返ってひひひと嗤いかけたが、ふっと涙がこみ上げて慌てて腕を上げてふいた。
裏小路に出ればそこは所謂《いわゆる》鐘路裏で、カフェー、バー、立飲屋《ソンスルチビ》、おでん屋、麻雀屋、周旋屋、飲食店、旅館等が、目をぴかぴか光らせたり、口を開けたり、尻ごみしたり、地べたにひっつくように蹲《しゃが》んだりしている。ぎーぎーとレコードが騒々しく辺り一面で唸り立て、洋服や白い着物がうろつき廻っている。景気のいい商人や、総督府あたりの朝鮮人雇員、無職で金のある青年、モダンボーイ、そしてカフェー音楽家、バーマルキスト等が、夜はよくこの界隈で気焔を上げるのだった。中には大枚をばらまきに来た金山男もいる。いよいよ目的地へ来たぞと玄竜は考えた。たとえ田中が大村に案内されていないとしても、誰かに連れられてきっとこの界隈へ朝鮮色を満喫するために来ているに違いなかった。成るべくは大村君と一緒でないようにと……彼はこう念願しつつ一つ一つ飲み場へ首を突き入れて調べてみることにした。その後をやはり子供達はにやにや笑いながらついて来る。彼はたとえ自分を尊敬する人がいてどんなに引張ろうとも決して道草は食うまいと固く決心した。それ故カフェー鐘路会館の扉を開けるや誰かがよう玄さんと叫んだ時も、彼はへへへと笑ったまま踵《きびす》を返し、バー新羅の中を窓を開けて覗いたとき、おい気違い、乞食野郎! と皆から罵声を浴びせられた時も、彼はただ自分が柔道初段以上もあることを思い起すだけでへらへらと笑い去った。或るところはうっかり飛び込んで、朝鮮服に洋装とりどりの女からお花頂戴頂戴と襲われたが、それでも彼は女共のお尻一つ叩かず花を二つ三つ投げてやりながらほうほうの態で逃げ出しただけであるが、このようにその界隈を西から東へと殆んど虱潰《しらみつぶ》しに捜し廻ったけれど、どうしても田中の一行は見当らない。彼はいよいよ焦だたしい気持に追いたてられ、あてどのない憎々しさと憤りをどうすることも出来なかった。
玄竜は再びどこといった目当てもなしに、がに股の足を重そうに引きずりつつ捜し廻った。今度はところどころへ首を突き入れて女達に質ねさえしてみた。が、かれこれ二時間あまりも歩き廻ったけれど一向に埒《らち》が明かず、激しく疲れが出、空腹を感ずるばかりだった。とうとう優美館裏あたりの大分淋しいところまでやって来た時は寸歩も足を運ぶことが出来ないまでにくたくたに疲れ、一先ずそこらのとあるきたならしい立飲屋へ潜《もぐ》り込んだのである。埃っぽい明るみの中では、みすぼらしい人々が各々二三人ずつ一団をなして相寄りかたまってがやがや騒ぎ立てつつ盃をかわしていた。玄竜は桃の枝を担いだまま皆の驚きの視線を浴びながら、中央正面の方へのっそり進み出た。前の方に長い板で酒台が据え附けられていて、その向うの方に顔の小綺麗な女がちょこなんと坐っていた。彼は台の上に出してくれる大きな盃を取って、女から薄黄色っぽい薬酒をついで貰うなり一杯ぐっと飲み干した。それは妙にすっぱい味だった。顔を上げて辺りをじろっと一度眺め廻したが誰一人とて知る者はいない。他の人達は彼と視線がかち会うとびっくりしたようにぐっと口を噤《つぐ》んでそっぽを向いた。玄竜はそのため一層不機嫌になり、もそっと動いて行って、傍の方に据えてある網張り棚の中から豚の足を取り出して来るとむしゃむしゃ噛み始めた。それは朝鮮特有の安直な酒場で、茶碗程もある盃一杯に肴までついて唯の五銭で飲めるのだった。彼はあの好きな明けすけの淫ら
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