るつもりだったが、田中にしろ彼女にしろ自分にいい感情を持っていないばかりか軽蔑さえしていたのだ。よく彼は一里もある明子の所まで歩いて行っては、いろいろと大胆さの限りを尽してみたが、彼女は彼の図々しい程異常な情熱を莫迦にするだけだった。朝鮮の貴族で天才だということも彼女にはちっとも効目がなかった。こういうふうに毎日彼女に素気なくされて帰る道すがら、前々から知り合いの女給の宿へ行っては泊っていた。彼がこの女給を斬りつけたのは、いよいよ意を決し田中のいない中を見計って明子を襲うたのがしくじったその晩の帰りのことだった。そのために内地から追放されて朝鮮に帰り、どうやら渡りをつけて娯楽雑誌などに筆を取るようになったが、彼は空想を逞しゅうしてこの若い恋の経験を神秘化し、明子という美貌の純粋な娘に熱烈な恋を寄せられたというふうなことを、バルカンの志士インサローフとロシヤの乙女エレーナとの恋物語(ツルゲーネフの作品『その前夜』より)まがいにいつも方々へ書き連ねたものである。それで人々もこれだけはまさか嘘ではあるまいと信じ、自分もそれを幾度も書いている中に、ほんとうのことのように思い違いさえして今は美しい思い出となった。あーあの明子は今どうしているのだろう。早く田中に会って訊いてみたい。凡てが今になっては自分を悲しませる種ばかりではないか。
頭が急にくらくらして来て、何か突飛なことでもしおおせ兼ねない気持である。不意に又先程の百姓の絶望的な喚き声が聞えて来るようである。自分こそあの百姓のように救いのない絶望のどん底へ突き落されてもがいている人間に違いない。淫乱な言葉もとうに書き尽し、法螺《ほら》ももう誰一人とて信用しはしない。僅かばかり知っているドイツ語の単語も既に何度となく繰り返して書いたし、十三箇のうろ覚えのラテン語も十三回以上に喋ったし、フランス語は尚更のこと、文章の終りには必ずFINという字をつけたのに、もう今は文章の註文も来なくなったのでそれもおさらばになった。柔道初段以上というおどかしもどうやら効目がなく二段や三段はおろか物騒な拳闘選手までうようよしている。家もない、妻もない、子もない、金もない。最後に彼が拠りどころとして思い附いたのは、愛国主義者という美名のもとに隠れて凡てに向って復讎を計るばかりか、勢威のある大村にかばわれることだったのだ。だが朝鮮の文人達の間にも澎
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