な冗談さえ一言も云う遑《いとま》もあらばこそ立て続けに何杯もひっかけた。外の方から暖簾《のれん》の中へひょこひょこ首を出して、彼の出て来る気配をさぐっていた乞食の子供達も、ついにあきらめていつの間にかどこかへ消え失せてしまった。
彼はこんなに飲み始めると耳鳴りがし足が動けなくなるまでぐでんぐでんに酔わねば収まらない性分である。でも彼が泥酔するまでにはこの薬酒なら六十杯は少くとも必要とせねばならなかった。こうして一杯又一杯と盃を重ねる中に、酔いがけだるく全身に廻って来て、次第に胸をしめつけるような悲しみが襲うて来た。今夜中にはどうしても田中を掴まえねばならないのだ。そうだ、ここからすっかり酔いつぶれて出てもう一度朝鮮ホテルへ押し掛けて行くんだ。そして田中に助けを求めれば凡ては巧く運ぶに違いない。そう思うと何だか自分がお寺へ預けられるということが、急に哀れな喜劇のようにさえ思われてならなかった。自分もあの瓢《パカチ》のようなぐりぐり坊主になって袈裟《けさ》を身にまとい、鼻汁をよく啜り上げる正覚禿坊主の前で、毎日毎晩|数珠《じゅず》を首にかけて神妙に禅をくまねばならぬとは。彼はこの悲痛さを打消すように妙に喉にからんだ甲高い声を出して一人でに笑ってみた。だが彼は自分の笑い声にびっくりして慌てて肩にかけていた桃の枝を胸に抱きしめじっと息をころした。暫くそうしていると気はしずしずととおのいて行き体じゅうがとろけ込むようで、ふっと幽かな光芒を帯びていろいろな女の幻影がとりとめもなくちらちら動いて見える。×××××(五字欠)メロン頬の女。その陰で女流詩人がにっと笑っている。口を心持ちすぼめて明日の朝行くわと囁くのさえ聞えるようである。そうだ、今夜はどうしてもあのじめじめした下宿の穴部屋へ戻って彼女を待たねば……。すると彼女の水で洗ったような××××××××(八字欠)が空間に浮び上り、それがだんだんと腕をひろげて熱いむせるような息を吹きかけつつ自分の体をおそうて来るような錯覚が起きた。それにしても田中は一体どこにいるのであろう。彼はこのように現実と夢幻の間を右往左往している中に、今度は又何とはなしに田中の妹の明子のことを思い起した。田中もその頃は一介の文学青年として苦労していたが、一緒にいる妹の方は女子大に通っている美しい娘さんだった。当時彼はありったけの熱情を傾けて彼女を愛してい
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