人がいてどんなに引張ろうとも決して道草は食うまいと固く決心した。それ故カフェー鐘路会館の扉を開けるや誰かがよう玄さんと叫んだ時も、彼はへへへと笑ったまま踵《きびす》を返し、バー新羅の中を窓を開けて覗いたとき、おい気違い、乞食野郎! と皆から罵声を浴びせられた時も、彼はただ自分が柔道初段以上もあることを思い起すだけでへらへらと笑い去った。或るところはうっかり飛び込んで、朝鮮服に洋装とりどりの女からお花頂戴頂戴と襲われたが、それでも彼は女共のお尻一つ叩かず花を二つ三つ投げてやりながらほうほうの態で逃げ出しただけであるが、このようにその界隈を西から東へと殆んど虱潰《しらみつぶ》しに捜し廻ったけれど、どうしても田中の一行は見当らない。彼はいよいよ焦だたしい気持に追いたてられ、あてどのない憎々しさと憤りをどうすることも出来なかった。
玄竜は再びどこといった目当てもなしに、がに股の足を重そうに引きずりつつ捜し廻った。今度はところどころへ首を突き入れて女達に質ねさえしてみた。が、かれこれ二時間あまりも歩き廻ったけれど一向に埒《らち》が明かず、激しく疲れが出、空腹を感ずるばかりだった。とうとう優美館裏あたりの大分淋しいところまでやって来た時は寸歩も足を運ぶことが出来ないまでにくたくたに疲れ、一先ずそこらのとあるきたならしい立飲屋へ潜《もぐ》り込んだのである。埃っぽい明るみの中では、みすぼらしい人々が各々二三人ずつ一団をなして相寄りかたまってがやがや騒ぎ立てつつ盃をかわしていた。玄竜は桃の枝を担いだまま皆の驚きの視線を浴びながら、中央正面の方へのっそり進み出た。前の方に長い板で酒台が据え附けられていて、その向うの方に顔の小綺麗な女がちょこなんと坐っていた。彼は台の上に出してくれる大きな盃を取って、女から薄黄色っぽい薬酒をついで貰うなり一杯ぐっと飲み干した。それは妙にすっぱい味だった。顔を上げて辺りをじろっと一度眺め廻したが誰一人とて知る者はいない。他の人達は彼と視線がかち会うとびっくりしたようにぐっと口を噤《つぐ》んでそっぽを向いた。玄竜はそのため一層不機嫌になり、もそっと動いて行って、傍の方に据えてある網張り棚の中から豚の足を取り出して来るとむしゃむしゃ噛み始めた。それは朝鮮特有の安直な酒場で、茶碗程もある盃一杯に肴までついて唯の五銭で飲めるのだった。彼はあの好きな明けすけの淫ら
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