かなかった。「さあ、出掛けようか」と帽子をとり乍《なが》ら一言云っただけである。
前夜の嵐の後をうけてうすら寒い位の午後だった。広小路で市電を下りた時は丁度日曜で押し合いへし合いの雑沓ぶりである。いつの間にか呑まれるように松坂屋の入口まで来たので、私は別に用事はないものの彼の手を引いてはいって行った。中も非常に込んでいた。春雄がエスカレーターに乗ろうというので二人で並んで乗った時は、さすがに彼は幸福そうで晴々としていた。私もみちあふれるような歓びを全身に感じた。少年春雄は今|凡《すべ》ての人々の中にいるんだという考えが、私にはどうしても不思議な程に嬉しくてならなかった。彼は春雄であると同時に今は私の傍に立ち又人々の中にもいるのだ。二人は相並んで三階まで運んでもらった。そこでも人込みの間を縫いながら私達は五階か六階かの所まで上って行くと、食堂の一隅に向い合って腰を掛けたのである。だがその実二人は必要以上の言葉はいくらも交さなかった。彼はアイスクリームとカレライスをとり私はソーダ水を飲んだ。
「うまいかい」
「うん」彼は皿の上に顔をつけたまま私を上目で見た。「デパートのカレライスはうまい
前へ
次へ
全52ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
金 史良 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング