て来た山田が、背をちぢかめて隙間から部屋の中を覗き込むのだった。それから、
「やい朝鮮人!」と云って舌をペろりと出して見せると、追われるように再び逃げて行った。
 これ以来、益々山田春雄は意地悪くなって私につきまとって来た。私が彼に一層の注意をむけるようになったのはそれ以後のことである。
 成程そう考えてみれば、ずっと以前から彼は私を疑りの目で監視しながらつきまとっていたようであった。時々私が言葉尻などにひっかかって舌が廻らないような場合にも、よくそれを真似て殊更《ことさら》にわらい立てたりするのは彼だった。彼は最初から私を朝鮮出身だとにらんでいたのに違いない。でありながらも彼はいつも私につきまとい、私の部屋に来てはよくいたずらをした。それというのも彼は一種の愛情に似たものを私に対して感じていたためであろうか。ところがそのこと以来は、私を極度に敬遠しているとみえ、なかなか近寄っては来ないで、私のぐるりを一層うろうろとつきまとうだけだった。今に私がへまでもしたら一隅で意地悪く悦び立てようと身構えでもしているように。だが私は恐らく誰よりも愛情深い態度でいつも彼に臨んだ。私はむしろ彼を宥《ゆる》したかったのである。そして出来るだけ彼を研究し徐々に指導して行こうと決心した。私は先ずこういう風に考えたのだった。貧しい彼の一家は今まで朝鮮に移住生活を続けていた。その時に彼も外地へ渡った一般の子供のようにつむじ曲りの優越感を持たされて帰ったのであろう。だが私は或る日とうとう見兼て真赤に怒ってしまった。その時も私は教場に下りて子供達と遊んでいたが、二三度私の方をわざとらしく気遣ってから、急に何でもないことに怒って、傍の小さな女の子を実に残忍な程までに腕をふり廻して打ったのである。女の子は泣きながら逃げて行った。彼は逃げて行くのを追いかけながら、
「朝鮮人ザバレ、ザバレ――」と喚き立てた。
 ザバレと云うのは捕えろという意味の朝鮮語で、朝鮮移住の内地人がよく使う言葉だった。勿論女の子は朝鮮人ではない。私に対して見よがしに言ってみるのであろう。私は飛んで行って山田の襟首をつかまえると、前後見さかいなしに頬打ちを喰わした。
「何んということをする奴だ!」
 山田は声をひそめて何も云わなかった。ただそれは木偶《でく》のように私のするがままになっていた。泣きもしなかった。そして荒々しい息づかいをしながら、下の方からじっと私の顔を見上げた。殊更に目が白かった。子供達は私の廻りを囲んでつばを呑んでいる。彼の目にはふと一粒の涙がにじみ出したように見えた。だが彼はしずかに涙をおしこらえたような声で叫んだのである。
「朝鮮人の莫迦《ばか》!」

   二

 元来S協会は帝大学生が中心となっている一つの隣保事業の団体で、そこには托児部や子供部をはじめとして市民教育部、購買組合、無料医療部等もあって、この貧民地帯では親しみ深い存在となっていた。赤ちゃんや、子供のためには勿論、日常の細々した生活にまで、それはもう切りはなされないような緊密な連りをもっていた。そしてここへ通う子供達の母の間には「母の会」もあって、お互いに精神的な交渉や親睦を計るために、彼女たちは月二三度ずつ集まるのだった。だが今までついぞ一度も山田春雄の母は顔を出したことがなかった。自分の子供が夜遅くまでここへ来て遊んでいることを知っていようものなら、たとえ他の母達のように関係大学生達への温かい感謝の念からではないにしろ、時には親として自分の子供に対する心配からでもやって来ようというものではないか。――私はこの異常な子供に関心を持つとともに、こういう彼の家庭からして知らねばならないと考えたのである。
 間もなく週末の三日続きの休みを利用して、子供達がどこかの高原ヘキャンプ生活に出掛けるようになった時、私は山田を自分の部屋に呼んで来た。山田は今までこんな機会にはいつも参加出来なかったことを私は知っている。
「どうだね、君も行くかい」
 少年は頑《かたく》なに黙っていた。彼はこういう場合はこちらがどんなにやさしく持ちかけてもいつも疑り深くなるのだった。
「今度は君も行こうね」
「…………」
「どうしたんだね、君もお母さんを連れて来たらいいよ。父ちゃんでも構わない、どなたか父兄の方が来て承諾すればいいことになっているからね」
「…………」
「連れて来る気かい」
 山田は首を振った。
「じゃ行かないの?」
「…………」
「費用は先生が出してやる」
 彼は空々しい目で私を見上げた。
「そうしようね」
「…………」
「そんなら君のうちに先生が一緒に行って話してやろうか」
 彼は慌てたように又首を振った。
「でも三日もとまって来るんだから、父ちゃんや母ちゃんの許しを受けないわけにはゆかないだろう?」
「先生も山に行
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