くの?」その時になってやっと少年はずるそうに訊ねた。「行かない?」
「うん、先生は駄目だ、今度は留守番をすることになったんだ」
「じゃ僕も行かないや」
 彼はひそやかな微笑を唇の上に浮べた。
「どうしてだね?」
 すると彼はいーと歯をむいて白痴のように顎を突き出してみせた。
 こういう風にして私はかねがね彼の家を一度訪問してみようと思いながら、とうとう果すことが出来なかった。彼はどうしたのかその隙を与えてくれないのである。
 いよいよ土曜日が来て、S協会子供部の百余名は悦びざわめきながら上野駅へ列をなして出掛けたが、やはりその時間になるまで山田は見えなかった。だが後から屋上に用を思い出して上って行った私は驚いてしまった。物干台の柱にもたれて山田春雄が遠く並んで行く子供たちの行列をじっと眺めている。私は何とはなしに目頭が熱くなるのを感じた。物音に気附いて振り向いた彼はひどくまごついたようである。私は強いて笑いを作りながら彼の肩を後からそっと抱いてやった。
「そうら、あすこにアドバルンが上っているだろう」
「うん」彼は消え入りそうな声で云った。煤《すす》けた煙突や黒々した建物を越えて遠くの上野公園あたりに、二つ三つそれが尾をひいて浮んでいる。私はふと彼を温かくいたわってやりたいような気持になった。
「なあ春雄、これから先生は暇だから一緒に上野へでも行こうかい」
 少年は見上げながらにっと笑った。
「じゃ行こう。先生は学校にも用事があるから丁度いい」
 学校に用事があると云ったのは勿論嘘だった。そんなにも心にもないことを云う程、私は内心山田をはばかって遠慮しているのだろうか。
「へえ」彼は目をみはった。「先生も帝大なの?」彼はほんとに驚いたのに違いなかった。
「朝鮮人も入れてくれるかい?」
「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば……」
「嘘云ってらい。僕の学校の先生はちゃんと云ったんだぞ、この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」
「ほう、そんなことを云う先生もいるのかい。それで生徒は泣いたのかい」
「うん泣くもんか、泣きやしねえよ」
「そうか、何という子供だい。一度先生の所へ連れて来てごらん」
「いやだい」彼はせき込んだ。「いないんだよ、いないんだよ」
「おかしなことを云うね」
「誰にも云わないんだよ、云わないんだよ」
 彼はむきになって取り消した。全くへんな子供だなあと私は思った。丁度それと殆んど同じ瞬間だった。もしや彼がその朝鮮の子供ではないかという考が不意に浮んで来たのは。私は驚いたように彼の顔をじっと見つめた。彼は顔をこわばらせ警戒するように後ずさりした。そして急に一目散に階段をかけ下りながら叫ぶのだった。
「うん、僕、帽子をかぶって来るよ」
 私は静かに首をふりながら階段を下りて行った。
 だが私は玄関口から近い階段まで下りかけた時に、下の方で並々ならぬことがもち上っているのを知った。息をひそめてもみ合いながら、医療部の医師や看護婦や購買組合の男たちが、玄関口に横着けにされた自動車から一人のみすぼらしい恰好をした婦《おんな》を運び込んでいる。その後から助手の李がひどく興奮しているとみえ、肩で呼吸をきらしながらはいって来るのが見えた。婦の頭は血まみれになって後へぐんなりと垂れている。春雄がその傍をぶるぶるふるえながら二三歩ついて来たが、私を見附けるとぎょっとして立ち竦《すく》んだ。私はすぐに李の方へ近附いて行って、心配そうにどうしたことだと質ねた。すると彼は歯ぎしりしながら叫んだ。
「亭主に刃物で頭をやられたんです」医療部の戸口でがやがやしていた人々は皆驚いて彼の方へ振り向いた。「あの婦は朝鮮の人です。亭主は内地人の、これはひどい悪党なんだ」それからハンケチで首筋をふこうとしたとたんに、傍の方でうろたえている山田春雄を見附けると、彼は恐ろしい勢で少年の方へ飛びかかった。
「丁度こいつだ。こいつのおやじなんだ」彼は山田の手首をねじ曲げながら恰も犯人でも挙げたように「こいつの、こいつの」と口に泡をふくんで叫ぶのだった。その声はもはや興奮のあまり泣声にかわっていた。
 山田はひどく苦しそうに悲鳴を上げながら、
「違うんだよ、違うよ」と喚いた。「朝鮮人なんか僕の母じゃないよ、違うんだよ、違うんだよ」
 男達が中にはいってようやく二人をひき放した。私は殆んど茫然としていたのである。李君はいきりたって再び襲いかかり山田の背中を勢にまかせて蹴りつけたので、春雄はよろめきながら私の方へ抱きついて来た。そしてわーっと泣き出した。
「僕は朝鮮人でないよ、僕は、朝鮮人でないんだようー、なあ先生」
 私は彼の体をしっかりと抱いてやった。私の目頭には熱いものがじーんとこみ上げて来るのを感じた。あの李のやけのような取
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