くれた。私ははじめはそんな呼び方が非常に気にかかった。だが後から私はやはりこういう無邪気な子供たちと遊ぶためには、却ってその方がいいかも知れないと考えた。それ故に私は偽善をはる訳でもなく又卑屈である所以《ゆえん》でもないと自分に何度も云い聞かせて来た。そして云うまでもなくこの子供部の中に朝鮮の子供でもいたならば、私は強いてでも自分を南《なん》と呼ぶように主張したであろうと自ら弁明もしていた。それは朝鮮の子供にも又内地の子供にも感情的に悪い影響を与えるに違いないからだと。
 ところが、或る晩のこと子供たちと騒いでいる所へ、私の生徒の一人が真蒼《まっさお》にひきつったような顔をしてはいって来た。それは自動車の助手をしながら夜になると英語や数学を習いに来る李という元気な若者であった。彼は戸を閉めると挑《いど》みかかるような調子で私の前に立ちはだかった。
「先生」それは朝鮮語だった。
 私ははっと思った。子供たちもどういう意味かは知らないが何か嶮しい空気にけおされて、彼と私の顔をかわるがわる見守っていた。
「さあ、又後で遊ぶんだ。これから先生は用事があるんだから」と私は落着きをつくろいながら口元に微笑みさえ浮べた。
 子供たちはすごすごと出て行った。だが山田春雄のまなざしばかりは異様な光を点《とも》して、さぐるようにじっと私を見つめていた。私は今だにその薄光りしていた目を忘れることは出来ない。彼は蟹のように横歩きで方々へぶち当りながらぬけ出るのだった。
「まあお掛けなさい」私は二人きりになった時静かに朝鮮語で話しかけた。「ついお互い話し合うような機会もありませんでしたね」
「そうです」李は立ったまま叫んだ。「私は実際あなたにどちらの言葉で話しかけていいか分りませんでした」彼の言葉の中には若者らしい憤りがのたうっていた。
「勿論私は朝鮮人です」という自分の答は心なしかいささかふるえを帯びていた。恐らく彼に対しては少くとも苗字のことが気にかかっていたのであろう。或は平気な気持でいられなかったのも、その点自分の身の中に卑屈なものをつけていた証拠に違いなかった。そこで私は寧《むし》ろ少しばかりうろたえながら、こう質ねてしまった。「何かお気にさわるようなことでもあったでしょうか」
「あります」彼は昂然と云った。「どうして先生のような人でさえ苗字を隠そうとするのです」
 私は咄嗟《とっさ》で言葉につまった。
「まあ落着いて坐ろうじゃありませんか」
「どうしてか、私はそれが訊きたいのです。私は先生の眼や顴骨《かんこつ》や鼻立から、きっと朝鮮人であるのに違いないと思いました。だがあなたはそんな素振り一つしなかったようです。私は自動車の助手をしています。寧ろ私のような職場の人々に苗字のことでいろいろ気拙《きまず》いことが多い筈です。だが」彼は波打つ激情の余り吃《ども》り出した。どうして彼はこんなにまで興奮しているのであろうか。「だが私はそんな必要を認めないのです。私はひがみたくもなければ、又卑屈な真似もしたくないのです」
「全くです」私はかすかに呻《うめ》くように云った。「私も君の云うことと同感です。だが私としては子供達と愉快にやってゆきたかっただけのことです」廊下では相も変らず先の子供たちが騒ぎ合いながら、時々戸を開けては洟《はな》たれ顔で覗いたり、目をつぶって舌を出してみせたりした。「例《たと》えば私が朝鮮の人だとすれば、ああいう子供たちの私に対する気持の中には、愛情というものの外に悪い意味での好奇心といっていいか、とにかく一種別なものが先に立って来ると思うのです。それは先生として先ず淋しいことです。いや寧ろ怖ろしいことに違いない。だからと云って私は自分が朝鮮人だということを隠そうとするのではない。ただ皆さんがそういう風に私を呼んでくれた。又私もそうことさらに自分は朝鮮人だとしゃべり廻る必要も認めなかっただけなんです。だが君にそういう印象を少しでも与えたならば、私は何とも弁解のしようもないのです……」
 と云った時、戸を開けて覗き込んでいた子供の中、突然大きな声で喚いたものがある。
「そうれ、先生は朝鮮人だぞう!」
 山田春雄だった。瞬間廊下はしんとなった。私も一寸ばかり面喰わずにはいられなかった。そこで努めて気を落着けるようにしてこう云った。
「いずれ又会ってゆっくり話しましょう」
 李はわなわな手をふるわせながら出て行った。山田をはじめ二三の子供たちが逃げ出すようだった。私は呆然と立ち尽していた。一瞬間電光のように俺こそ偽善者ではないかという考えが閃《ひらめ》いたのである。階下の方ではがんがんと鐘の音が聞えていた。子供たちは騒ぎたてながら雲のように下りて行く、その音が恰《あたか》も遠い所からのように響いて来た。すると戸がそっと開いて忍び足でやっ
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