んだなあ」
そこからエレベーターで下りて来ると、一階の特売場で彼のアンダーシャツを一円で買った。彼はにこにこしながら包の紐を長くぶら下げて出て来た。
公園も珍しい人出であった。私達は石段を上って大通りに出た。こんもりとした木立は午後の淡い光をうけてものうそうに静かにゆらいでいた。空はどんよりと濁り風は折々高い木の梢に雨のような響きをたてている。だだっ広い大通りにはお上りさん風情の婦や男たちがぞろぞろと歩いていた。少年はいつの間にか新しいアンダーシャツに着替えて、ぼろぼろの上服を脇にかかえたまま、時々口笛などを吹き鳴らした。私は何とも云えない程彼がしおらしくなって来た。だが私はあまり彼に言葉をかけることが出来なかった。突然彼が私の袖を引きながら云った。
「先生云うのかい」
「何をだい」
見ると彼の目はいつものように猜疑と反逆の光をともしていた。私ははっと気がついた。煙草の一件を云うのだった。
「云うもんか、誰にも云いやしないよ、可哀そうな母ちゃんのために持って行ったんだもの、今日は実に君が善い行いをしたと先生は思っている位だ。母ちゃんは煙草が好きなんだろう?」
「好いていやしないよ」と彼は妙にしょげて渋々《しぶしぶ》呟いた。「母ちゃんは血が出たら……いつもきざみ煙草を傷にはっていたんだもの、僕ちゃんと知っていたんだもの」
成程と私は思わず息をのんだが、どうしたことか驚きの色さえ顔にあらわすことは出来なかった。私の目先が急にぼうと霞んで来たような気持だった。×××××××××[#底本の注によれば、欠落した9字は初出では「半兵衛に打たれて」となっている]血を流しては、彼女はいたましくもきざみ煙草をつばで練っては、幾つも幾つも傷口にはりつけていたのに違いなかった。丁度彼女の郷里の百姓達がそんな風にして傷を治そうとするように。
「そうか」
私たちはいつの間にか交番に近い所まで来ていた。その傍に頑丈そうな体重計がおいてあった。私はそれを見ると、とりつくろうように振り向いて淋しく笑いかけながら計ってみないかと質ねた。すると彼は悦んで飛びのった。余りに激しい力を一時に受けたので針がてんてこ舞いをし始めた。案外重いようだった。その時春雄は何かに驚いたとみえ、私の方へ飛びかかりながら小さく指で大通りをさしてみせた。何だろうと思って彼のさしている方を振り向いてみると、丁度一台の自動車が私たちの傍へすうっと横着けになるのだった。
「おや」と思ってみると運転手台で李が新しい帽子の庇《ひさし》に一寸ばかり指を上げてにこっと挨拶をしてみせた。私も嬉しくなって彼の方へ近寄って行った。
「お目出度う、先程病院で君のお母さんが云ってましたよ。うまくいったそうですね」
春雄は別に悪びれずに私の傍へよりそうて来た。それを見て李は工合悪そうに目を逸《そ》らした。
「え、今先私も病院へ行って来たんですよ」それなら彼はそこで春雄にも会った筈だった。黒い美しい目をしばたたきながら、さすがに彼は悦びをつつみ隠せずに珍しくはしゃいだ。
「僕もやっと一人前ですよ、随分これはいい車でしょう。三七年型だけれどわりに新しいし、エンジンもしっかりしていますよ」
そこで鷹揚にセルモーターを踏んだ。私の目にはありきたりのフォード型でそれ程いいようにも思われなかったが、「成程いい車ですね」と答えた。「今日はこの春雄君と一緒に遊びに来たんですよ」そして少年を引き立てるように続けた。「今も僕は気が附かなかったが春雄君が教えてくれたんでね」
「どうです、ひとつ乗ってみませんか。動物園にでも行くんでしょう」彼は戸を開けてしきりにすすめ出した。
二人は仕方なしに手をとって乗り込んだ。動物園の入口まではいくらもなかった。
「どうですか乗り心地がいいでしょう」彼は私たちを下ろしながら云った。この純真な若者には今日という日がたのしくてならないのであろう。「ほかのお客さんもみんなそう云ってくれましたよ」
「そう、新しくて気持がいいですね」私は正直に云った。
そこで彼は満足して見事にハンドルを操り切り返しをやると、先刻のように指を一寸立てて別れを告げ、ぶーぶー警笛を鳴らして人を散らしながら河豚《ふぐ》のように走って行った。春雄はじっと立ったまま羨望に満ちたまなざしで車を見送っていた。私は何という恵まれたうれしい日だろうと考えた。
「李君は立派な運転手になったね。君は大きくなったら何になる積りだい」私は春雄を顧みながら楽しそうに質ねた。
「僕、舞踊家になるんだよ」彼はいきなり明るい声で叫んだ。
「ほう」私は驚いて彼を見つめた。一時に彼の体が光彩を放ち出した様に思われた。「舞踊家になるのか」ふとこれは実に素晴しい舞踊家になれるかも知れないぞと考えた。
「そうか」
「うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど
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