明るいところでは駄目だよ。舞踊は電気を消して暗い所でやるもんさ。先生は嫌いかい?」
「ううん、それはきっと素晴しいことだろうな。そう見れば君は体も実にいいぜ」私は夢想するように云った。
「先生も踊りがとても好きなんだ……」
私の目の前には、この異常な生れをもつ、傷めつけられ歪められて来た一人の少年が、舞台の上で脚を張り腕をのばして、渡り合う赤や青の様々な光を追いながら、光の中に踊りまくる像がちらついて見えた。私の全身は瑞々《みずみず》しい歓びと感激にあふれて来るのを感じた。彼も満足そうに微笑を浮べながら私を見守った。
「先生だって踊りを作ったことがある位だよ。先生も暗い所で踊るのが好きなんだ。そうだ。これからは先生と一緒に踊りを稽古しよう。うまくなったらもっと偉い先生の所へ連れて行こうな」私は何も作りごとを並べているのではなかった。私も一時は舞踊家になろうと思って創作舞踊を試みた覚えさえあった。
「うん」彼の目は青い星のように輝いていた。
(そうだ、近い中に協会の傍のアパートにでも移って行こう。そこで一先ず二人きりになるんだ)と私は自分に云い聞かせるのだった。彼がどうこれから豹変《ひょうへん》するかは知らない。寧ろ又私を立ち所に裏切るには違いない。だが頑なにこちこちといじけ固っていた気持を、ほんの少しでもほぐしかけて来たこの機会を、私は逃してはならないと思ったのだ。
どうしたものかその時二人は浮かれ浮かれて老木の間をぬけて弁天様の傍を通っていた。そこにもここにも昨夜の嵐の跡が残って、折れた枝が落ちかかったり雨に洗われた地面に所々わくら葉が落ちたりしていた。鳩の群が弁天様の屋根や五重の塔のまわりをにぎやかに飛び交っていた。灯籠の傍に出ると下の方に茂みの合間を通して不忍池が見渡される。それは鏡をのべたように夕陽に照り返り時々ぎらぎらと金色に光ってみえた。五つ六つボートが浮んでいた。池に渡した石橋のてすりには多勢の人々がもたれて水面をながめている。何んだか軽い霧が立ちこめはじめているように思われた。もうだんだんと夕暮になって来るのであろう。ゆるやかにそれが池をつたわってこちらの方へ次第にひろがって来るように感ぜられる。それにつれて二人の心はますます清澄なものにしずまって行くのであった。
「動物園というのがここまで来てしまったね」
「だけど僕、ボートに乗りたいな」彼ははにかみながら云った。
「そうか、じゃ下りて行こう」
そこからは長い段々が続いていた。私と春雄はそれを一つ一つ下りて行った。彼は一段下の方を歩いて、恰も老人でも連れているように用心深そうに私の手を引きずって行くのだった。だが彼は中段まで下りて来ると急に立ち止って、私の体にぴったりよりついて私を見上げながら甘えるようにこう云った。
「先生、僕は先生の名前を知っているよう」
「そうか」私はてれかくしに笑って見せた。「云ってごらん」
「南《なん》先生でしょう?」そう云ったかと思うと彼は私の手に自分の脇にかかえていた上服を投げ附けて、嬉々としながら石段をひとり駆け下りて行くのだった。
私もほっと救われたような軽い足取りで倒れそうになりながら、たたたっと彼の後を追うて下りて行った。
底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 I」河出書房新社
1973(昭和48)年2月28日
※初出:「文芸首都」1939(昭和14)年10月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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